バーバー作曲「弦楽のためのアダージョ」を教会音楽に編曲「アニュス・デイ」

 2017-07-14
 あまりに美しいので人に教えたくない曲。映画『プラトーン』で使われて有名になりました。
 この動画は20年くらい前の記録らしいですが、ていねいに歌われ、聴き入ってしまいます。
この局が有名になったのは、故ケネディ大統領の葬儀で演奏されたことによりますが、作曲者は元々は葬儀のために作曲したわけでないのに、と言ったとか。
  世界の紛争地を想って「平和を」と、祈りに誘われます。


  神の子羊(アニュス・デイ)

Agnus Dei,    qui   tollis           peccata mundi:

子羊  神の      主よ 除きたもう    罪を 世の 

(神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、)


  miserere          nois.

あわれみたまえ    われらを 

(我らをあわれみたまえ。)

Agnus Dei,    qui  tollis      peccata mondi:

子羊  神の    主よ 除きたもう     罪を   世の 

(神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、)


dona     nobis    pacem.

与えたまえ  われらに   平安を
(我らに平和を与えたまえ) 





より新しい録音の演奏です。








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『シンプリー・ジーザス(SJ)』第2章ー第3章資料集

 2017-07-10
 第1章に続いて、読書のための資料として、いくつかキーワードの解説を掲載します。SJを読んでいないとほとんと役に立ちません。
 本記事の読者対象は、高校生から大学生を想定。(黒文字はブログ主やネット上からの引用。青文字は『シンプリー・ジーザス』からの引用)

第2章 三つの難題

P.32 メリアム・ウェブスター辞典
 ライトは、「神」の基本的な定義をこの辞書から引いています。ウェブスター辞典は、19世紀前半に初めて編纂された米国の英語辞典。その後、改訂を重ね、今日まで英語圏における最も普及した英語辞典の代名詞と言われています。ウェブスター辞典と言うと一般に大辞典を指すそうですが、簡易版、中型、小型など様々な形式の同じ名を冠した辞書が出されています。メリアムとは発行している出版社名。正式名はメリアム・ウェブスター社。ライトが引いたのも、日本で言えば「広辞苑にはこうあります」という感じでしょう。
   07ae37e1.jpg

 2章はこのくらいですかね。


第3章 パーフェクトストーム

P38 それまでいくつもの「パーフェクトストーム」があったのだが、今度の場合はその名を冠した本と映画によって広く知られることになった。

映画『パーフェクトストーム』(実話を元にして製作。公開2000年)


ウィキペディアによると、「複数の厄災が同時に起こって破滅的な事態に至ることを意味し、
リーマン・ショックなどにも比喩的に使われる」だそうです。
(以下、ストーリー)1991年9月、マサチューセッツ州グロスターに一艘のメカジキ漁船 - アンドレア・ゲイル号が漁に出る。遠方の漁場へ足を伸ばし期待通りの大収穫を収めた。この時、「ノーイースターと呼ばれる嵐に加えて「ハリケーンも接近して、急ぎ帰路に就いたが、ノーイースターとハリケーンが融合し、巨大な嵐“パーフェクト・ストーム”(1991 Halloween Nor'easter)が発生した。


P39  懐疑主義と保守主義

懐疑主義(米: skepticism、英: scepticism)ウィキベディアより抜粋、以下Wikiとする。
基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆる独断を排除しようとする主義。懐疑主義ないし懐疑論は、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、不可知論と結びつき、神や存在の確かさをも疑うようになるとされる。しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったため、肯定的に語られることが多い。

保守主義(conservatism)または保守(conservative)
伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、それらを保存・維持するために、急激な改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、団体などを指す。政治などにおける保守主義(保守派)を右派ともいう。各集団や勢力の内部で、更に相対的に「右」「左」を示す場合にも使用されている。


P41 「新・無神論者」

リチャード・ドーキンスやクリストファー・ヒッチンズ、サム・アトキンスのような「新・無神論者」たちの本が、どうしてそんなに売れるのか

ドーキンスは本書で、ロバート・パーシングの発言「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。 多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」を引用。

ジャーナリスト、作家。学生のころから反戦、反人種差別運動等数多くの政治運動に参加。オックスフォード大卒。『宣教師の立場』『トマス・ペインの『人間の権利』』等多数の著書を著す。『宣教師の立場』では、マザー・テレサを厳しく批判。リチャード・ドーキンスが著作に彼を引用。(Wiki より)

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『宣教師の立場』←リンク有り


サム・アトキンス
(訳文にある名前)
すみませんが、ここは原書の英国版と米国版で異なる人名が記してある可能性があります。たぶん、ピーター・アトキンスサム・ハリスがごっちゃになっているかもしれません。いまになって気づきすみません。

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オックスフォード大学リンカーン・カレッジの化学教授。化学系教科書の多作家として知られる。また、通俗科学の作家として、Molecules and Galileo's Finger: The Ten Great Ideas of Science? などを書いた。無神論者であり、ヒューマニズムや無神論、及び科学と宗教の不和合性の問題について執筆、講演している。(Wikiより)



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(Sam Harris、1967〜)米国の著述家、認知神経科科学の博士。哲学博士。スタンフォード大学に入学し、MDMA(薬物)が精神に与える影響について研究。大学在学中にインドへ渡り、インドやネパールで多くのヒンドゥー教や仏教の宗教者たちから教えを受ける。主にアブラハムの宗教に対して批判的に論じた最初の著書『The End of Faith(信仰の終焉)』を2004年刊行、全米でベストセラー。『ニューヨークタイムズ』のベストセラーリストに33週間留まった。


P49 歴史の複雑さという問題


さすが日本語ウィキペディアにも情報が豊富です。60代以降の人には記憶に鮮明でしょう。
ケネディについてはプライベート生活を含め、いろんなことが記録され、詳細に分かっています。彼を理想化していたところがある私も、いま資料を読んで知らないことが多く出てきて、驚くことも多く、大変に興味深いです。
JFKBerlinSpeech.jpg 


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紙上対談:N・T・ライト著『シンプリー・ジーザス』の訳者に聞く

 2017-06-27
 (2分30秒からセントアンドリュースの街を海岸から見ることができます。ゴルフ場?も少し)

ゲスト:山口希生(訳者)
インタビュー:小渕春夫(担当編集者)


発行後三ヶ月が経って

——『シンプリー・ジーザス』の発売後、三ヶ月たちました。翻訳お疲れ様でした。出版の経緯は「訳者あとがき」に書いてありますが、いまのお気持ちはいかがですか?

山口:読んでくださった方々から直接声を伺うのがいちばんうれしいです。特に今回は、私が伝道師をしている中野教会のたくさんの方々が読んでくださり、教会内で小さな読書会も開かれています。他の教会でも読書会を立ち上げたというお話しも聞きました。生の感想を聞けるのは本当に感謝なことです。

——本を通して、よい対話が生まれて聖書理解が深まるといいですね。さて、読み終わった人はかなりいると思います。いままで耳にした範囲での反響はどうでしょう。

山口:そうですね、読みやすいと思って読み進めると、だんだん難しくなっていった、という感想が多かったように思います。たしかに本書は後半になればなるほど中身が濃くなっていく本ですからね。キリスト教世界観について、これまで抱いてきたものが「ひっくりかえされた」「ショックを受けた」という方もおられました。

——ほう、そうですか。私もいろんな意味で従来の考え方の再検討を迫られるものがありましたし、創世記から黙示録に至る広がりのある理解につながるのが魅力的です。  
 期せずして同じ著者による『使徒パウロは何を語ったのか』(岩上敬人訳)が他社から同時発売になりました。「クリスチャン新聞」に訳者同士で互いの書評を書くという珍しいことも起こりました。両方とも一般読者向けに書いたとライト氏は言っていますが、なかなかそうは簡単とは言い切れないと思います。

山口:そうですね、岩上先生の訳された『使徒パウロは何を語ったのか』は学術書というべき内容を備えています。パウロ神学の研究は、新約聖書学の中でも最も盛んに議論されている分野ですので、同書を深く味わうには、その背景についてガイドというか、説明をしてくださる方がおられると良いと思います。勉強会や読書会を開いて読むのがよいのではないでしょうか。

——一般の読者が本書全体から読者は何を読みとって欲しいですか?

山口:キリスト教についてあまり詳しくないという方には、簡単でもシンプルでもない本だと思います。むしろ、学生時代にキリスト教系の学校に通って、授業などでキリスト教に初めて触れたけれども疑問がたくさん残ったというような方々には面白いかもしれないですね。

——しばらく前、関西で行われた神学会に山口さんが招かれ、神学生や関心の高い教会関係者が集まり、講演をなさいました。熱心な質疑応答もなされたようです。そのときのみなさんのライトへの関心、反応はいかがでしたか?

山口:ライト先生の話はまったくしませんでした(笑)。月刊誌「舟の右側」(2017年6月号)に概要が乗りましたが、新約聖書を理解する背景となるユダヤ黙示思想の視点から、パウロの書簡にある罪の支配や贖罪理解について話させてもらいました。


本書の構成と主張

——タイトルの『シンプリー・ジーザス』は、決めるの何度も私とやり合いましたね(笑)。これで行こうという確信は山口さんは強く持たれたようです。

山口:「シンプリー」という言葉は日本語にぴったりとくる訳語がありません。以前イギリスに「シンプリー・レッド」というバンドがありましたが、「シンプリー」という語感はイギリス人だけでなく、日本の若い方にも抵抗のないものだと思います。若い方々にも読んでほしいという願いも込めて、そのままのタイトルにしました。

——ライトは本書の構成として、三つの時代思想が吹き荒れるという舞台設定をして、それを「パーフェクト・ストーム」と名付けました。そのただ中に登場したのが、待望のメシア、イエスであるという、非常に巧みな手法で書いています。さすがシェイクスピアやC・S・ルイスを生み出した国の人ですね。そのときの迫真のドラマが今日によみがえる感じがします。こうした文学的手法は彼の特徴の一つでしょうか?

山口:ライト先生の本にはよく「ロード・オブ・ザ・リングス」の引用なんかも出てきます。そういう「ポップ」な感じを大切にしているのではないですか。また、文学だけでなく、ベートーヴェン等の音楽家もよく登場します。やはり彼は英国の偉大なる教養人の一人ですね。

——20世紀が生んだ神学者への鋭い反論が要所要素に含まれているらしいですが、分かる人には面白いでしょうね。尊敬しつつ、批判すべきところは批判しています。

山口:そうですね、特にアルベルト・シュヴァイツァーを意識しているのではないでしょうか。シュヴァイツァーは一流の聖書学者ですが、学界だけでなく一般のキリスト教界にも大変な影響を及ぼしました。その影響力の広がりと言う意味では、ライトは当時のシュヴァイツァーに匹敵する存在だと思います。

——今後の日本のキリスト教会が、ライトを含め世界の神学の潮流を学ぶ上で、どんな点に気をつけるべきか、どんな態度が必要になってくると思いますか?

山口:ライトはあくまで聖書学者です。聖書が何を語っているのか、それを探求し、広い世界に向かって伝えることが自分の使命だと考えていると思います。ですから、「ライトの神学」とか、だれだれの神学ということではなく、聖書が語っていることを理解するための一つの助けとして読まれるとよいと思います。


セントアンドリュース大学のこと

——ライト先生のもとで山口さんが学ばれたセントアンドリユース大学がある場所は、有名なゴルフ大会があるということしか私は知りません。数年すごされたそうですが、どんな街でしょう。エディンバラより北で寒そうですね。

山口:セントアンドリュースは本当に天国のような場所です、天気を除いて(笑)
セントアンドリュースは、スコットランドの宗教的な聖地でした。かつては大主教座がありましたが、宗教改革で大聖堂は破壊され、今は廃虚となっています。ですからスコットランドの宗教改革の中心地ともなりました。また、1413年にスコットランド初の大学が創立されて以来、学問の中心地でもありました。さらにはゴルフ発祥の地であり、ゴルフの聖地とも呼ばれています。小さな街ですが、古い町並みが保存され、夜など中世に迷い込んだような気分になります。「炎のランナー」で有名になったビーチも素晴らしいです。

——おお、あの冒頭の海岸を走るシーンはセントアンドリュースの海岸ですか! 私の好き映画です。さて、英国の新聞「ガーディアン」の最近の評価によると、神学部の質はでイギリスでトップのようです。神学部生の人数はどの程度で、外国人留学学生も多いのでしょうか?

山口:大学の神学部、セントメアリーズ・カレッジは英国の神学部ランキングではどの新聞でも常にトップ3に入っています。ライトだけではなく、有名な教授を何名も抱えていますからね。ちなみにイギリスでは神学部は尊重されています。私が渡英した2008年では、オックスフォード大学の入学生のAレベルのスコアでは(日本でいうセンター試験のようなもの)、法学部より神学部の方が上でした。日本では考えられませんが。大学全体では留学生が4割近く、非常に国際的です。ただ、神学部の博士課程の学生はアメリカ出身者が多過ぎて、それが問題になっています。

——ライトさんは、どのような人柄ですか?

山口:おおらかで、優しいですね。面倒見がとてもよく、信仰者としても心から尊敬できる方です。

——神学以外に、ライトさんから何か学んだことはありました。

山口:ライティングはコミュニケーションだ、ということを叩きこまれました。とにかく人が理解できるような文章を書こうと。これは学術論文だけではなく、説教や翻訳など、あらゆる面で役に立っています。

——そうですか。それはライトさんが日頃、心がけていることでもあるのでしょうね。
 さて、6月から月一回、山口さんを迎えて『シンプリー・ジーザス』の読書会も始まりました。参加者もとても楽しみにしています。
 今日はお忙しいなか、お時間をとってくださり大変ありがとうございました。


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『シンプリー・ジーザス』第1章資料集

 2017-06-18

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(青文字は、『シンプリー・ジーザス』からの引用、茶色は他の資料からの引用。黒の文字はブログ主の記述です。)

イエスのエルサレム入城

  いよいよ第一章が始まります。冒頭は、印象的なイエスのエルサレム入場から始まります。このシーンは、さまざまな宗教画家が描いてきました。上は、(スクロヴェーニ教会の壁画。ジョット作)

 次のリンクの写真が素晴らしい。→イタリア、スクロヴェーニ教会(1303-1305作)

第1章 P.17
イエスがやって来るのに合わせて、人々は自分たちの衣服を路上に敷いて彼を出迎えた。イエスがオリーブ山の麓に下ってくると、弟子たちの一群は声のかぎりに神を誉めたたえた(ルカ19・36〜37)。彼が近づいてくるにつれ群衆は、ますます熱狂していった。これこそ彼らが待ち望んでいた瞬間だった。人々は古くから愛誦されてきたあらゆる歌を口ずさみ、喜び祝った。とうとう彼らの夢が叶う時がきたのだ。


 映画にもなっています。このとおりかわかりませんが、聖書の記述にそっています。



しかし、ライトは言います。

 イエスは彼らが期待していたような王ではなかった。(略)イエスはロバに乗り、そして泣いていた。潰えつつある人々の夢のために涙を流し、自分の支持者たちの魂をも貫く剣のために泣いた。人々が待ち望んだ到来しない王国のために、また本当に到来していた王国のために、彼は泣いたのだ。

 死の数日前のイエスのエルサレム入城は、福音書の中で最もよく知られた情景の一つである。しかし、ここでいったい何が起こっていたのだろう? イエスは何をしようとしていたのか?

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アウグスティナ美術館蔵(右の画層はクリックで拡大可)

この箇所で、思い出したのは、ナウエン著『明日への道』に出てくる美しい文章です。(以下抜粋)


「フライブルク(ドイツ)の、アウグスティナ美術館にある『子ロバに乗るキリスト』は、私の知る限り、もっとも感動的なキリスト像の一つだと思う。(略)十四世紀に作られたこの彫刻は、棕櫚の日曜日に行われた行進で、台車に乗せて引くために作られたのだ。

 額の高い、キリストの細長い顔、心の内を見つめる目、長い髪、二つに分けられた少しの顎髭。これらは、キリストの苦しみの神秘を表わし、私の心を深く捕らえて離さない。イエスは、「ホザナ!」と歓呼の叫びを挙げ、枝を切って道に敷く人々に囲まれてエルサレムに入場しながらも(マタイ21・8)、彼自身はまったく別のことに意識を集中しているように見える。

 彼は熱狂する群衆を見ていない。手も振らない。そこにあるすべての音や動きを超えて、これから自分の身に起こることを見ている。それは、裏切り、拷問、十字架、死という苦悩に満ちた旅である。焦点の定まらない目は、周りの誰もが見ることのできないものを見ている。長い額は、人間の理解を超えたこれから起こる出来事を知っていることを表わしている。

 そこには暗さがあるが、同時に受容の平安もある。移り気な人間の心に対する洞察があり、同時に大きな憐れみが溢れている。これから味わう言語に絶する大きな苦痛を知りながら、神の御心を行なうという強い決心がある。そのすべてに加えて、愛がある。(ヘンリ・ナウエン『明日への道』 P.202)


『ジーザス・クライスト・スーパースター』
 P18に入るとミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』(70年代初期)を聞いたことが出てきます。いまの若者はまったく知らないでしょうが、これは50歳代以上の人はだいだいい知っているはず。日本でも劇団四季が日本版を上演し話題になりました。いまはありませんが、中野サンプラザホールのこけらおとしで上演されました。当時新人で、いまは有名な俳優として、鹿賀丈史、滝田栄、もんたよりのり。


 ブログ「JesusChristSuperstarファンの日記」を参考にさせていただきました。詳しいことを知りたい方は、あらすじ 最後の晩餐のシーン)のリンクをご覧ください。


P.19 
 結婚したばかりの私と妻はアパートの一階に越して、そこで『スーパースター』を聴いた。アンドリュー・ロイド・ウェバー〔『エビータ』『キャッツ』『オペラ座の怪人』等の英国の作曲家〕は、当時はまだ鼻息の荒い若者で、一代貴族には叙爵されていなかった。台本を書いたティム・ライスは、本物の能力と深さを示した詩を書き続けていた。ある人々は『スーパースター』について懸念を持つだろう。それはシニカルな作品ではないか、それはあらゆる種類の疑念を引き起こすのではないか、と。私はそういうふうにはこのアルバムを聴かなかった。






以下の映像は、2000年に作られた現代版の冒頭。この冒頭と最後の晩餐の終盤に、ユダによって以下の歌が歌われます。このミュージカルの中心は、イエスとイエスを裏切るユダの葛藤です。「あなたは本当は誰なのだ?!」


俺はあなたを見るたびに疑問がわくんだよ。
どうして手に余るようなことをしでかしたんだい。
計画的にすすめていれば、もうちょっとうまくやれたんじゃないのかい。
あなたを見るたびに私は理解に苦しんできた。
あなたの手には負えないような大きなことにどうして手をだしたのか。

よく考えて行動したなら、こんなことにはならなかったはずだ。


ジーザス・クライストは、スーパースター。

 あなたは本当は誰なのか? 何のために苦しんだのか?
 聖書に書いてあるとおりの人なのか?




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 70年代に発表されたアルバム(上左。レーザディスク盤。ライトが聞いたアルバムと同じジャケットかは不明。)背の低い人が70年代の作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバー(歌手サラ・ブライトマンとも一度結婚している)、背の高い人が脚本家ティム・ライス。その過去、そして現在の写真。

 『キャッツ』『オペラ座の怪人』(作詞はライスではない)は、もうよく知られていますね。『スーパースター』で二人は世界的な名声を得て、その後のめざましい活動が始まりました。


現代に影響を与えた三人の知的巨人
ライトはこう言います。

P.21
 この問いはとんでもなく重要だ。その問いとは、イエスとは実際に誰だったのかという問いだ。彼は何をなして、何を語り、それは何を意味したのか? これは成熟したキリスト教信仰が取り組まねばならない問いである。


そこで、現代の思想に影響を与えた有名な3人を引いてきます。

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フロイトが言うように、こうした感覚は私たちの心の奥底の願いが投影されたものにすぎないのだろうか?





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マルクスが言うように、キリスト教は飢えた大衆を黙らせるための方便にすぎないのだろうか?







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ニーチェが言うように、イエスは軟弱な宗教を教え、人類から活力を奪ってしまったのだろうか? 






(画像:Wikipediaより)


これら三人は、いまや私たちの文化の中で名誉ある地位を占める存在となっている。 


現代の無神論者の主張

P.21 
 さらには現代の辛辣な無神論者たちの主張、つまり神そのものは幻想で、キリスト教はおびただしい誤謬の上に成り立つまったくの時代遅れな代物で、あなたの健康を損ねさせ、すでに徹底的に論破されてしまっており、社会にとっても有害で、しかも愚かなほど首尾一貫していない、という彼らの主張は正しいのだろうか?  ライスやロイド・ウェバーからのものであれ、あるいはリチャード・ドーキンス〔進化生物学者・動物行動学者〕や他の人物からのものであれ、こうした問いに直面させられたクリスチャンたちには二つの選択肢がある。 ・・・

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 ドーキンスの本は人気のようで、日本でも10冊以上が翻訳されています。いちばん有名なのは『利己的な遺伝子』。その他、無神論、キリスト教排斥の著作も。

 ライトと同じイギリス人の無神論の論客として大変有名。同じオックフフォード大卒の先輩が、「もはや宗教はいらない、神は必要ない。妄想だ」と盛んに主張しています。ライトはどう反証していくでしょうか?

リチャード・ドーキンス 1941年生まれ。動物行動研究グループのリーダー。オックスフォード大の“科学的精神普及のための寄付講座”の初代教授。王立協会フェロー。『利己的な遺伝子』は世界中でベストセラー。ショッキングなタイトルの本は以下です。

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(BOOKデータベースより)人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか? 物事は、宗教が絡むとフリーパスになることがままあるが、なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか?

 「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば現在のアメリカ社会のあり方は、おかしくはないのか…『利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に携わっている著者は、かねてから宗教への違和感を公言していたが、9・11の「テロ」の悲劇をきっかけに、このテーマについて1冊本を書かずにはいられなくなった。

「もう宗教はいいじゃないか」と。著者は科学者の立場から、あくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い批判を加えていく。宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。神の存在という「仮説」を粉砕するために。―古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインを自称する、進化論を学校で教えることに反対する聖書原理主義勢力の伸張など、非合理をよしとする風潮は根強い。

あえて反迷信、反・非合理主義の立場を貫き通す著者の、畳みかけるような舌鋒が冴える、発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。


ナザレ出身のイエス
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P.27
 ナザレのイエスは歴史上の人物である。これが私たちの出発点となる。イエスはおよそ紀元前四年頃に生まれ(現在の西暦システムを考案した人々はよい仕事をしたが、完璧ではなかった)、パレスチナ北部のナザレという村で育った。彼の母は祭司の家系に連なっていて、ヨハネというがいた。そのヨハネは普通の人生を送っていれば、祭司となるべき人物だった。(地図『地球の歩き方』より)
(クリックで拡大)








 本書での試み
ライトは1章の終結部でこう言っています。

P.29
 もしイエスが実在せず、(ある人々が愚かしくも示唆するように)自分たちの新しい運動を正当化するために誰かがねつ造した人物だとしたなら、彼について考える意味はない。しかし、彼が歴史上の人物であるなら、彼が何をなし、それがその当時どのような意味を持っていたかを見いだそうとすることは可能である。私たちは(これから)福音書の内側に分け入っていこうとする。そうすることで、福音書記者たちが語りかけようとしていながら、私たちには見えなくなってしまったイエスを発見することができる。本書の多くの部分はそうした試みである。


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『シンプリー・ジーザス』資料集「はじめに」

 2017-06-16
 ブログ、長いあいだのご無沙汰でした。フェイスブックのほうでエネルギー使ってしまい、ブログまで手が出ませんでした。

 さて、いつまで続くかわかりませんが、 NTライト著『シンプリー・ジーザス』のリンク集を作ってみます。気楽にいきます。
読書の補助としてお役立てください。
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Simply Jesus(米国2011)『シンプリー・ジーザス』(2017)


「はじめに」リンク集
 まず、ライト教授が教えるセント・アンドリュース大学の風景を見てみましょう。バスからの風景を写してある模様です。1412年創立。日本では室町幕府の足利義満のころ。欧州ではジャンヌ・ダルクが生まれた年。ものすごく古くてびっくりです。中世そのままの建物でしょうか?

 長いので5:40くらいからどうぞ。
日本語による字幕説明のすぐあと、海に近い街の地図が出てきます。ライト教授が教えている「セント・メアリー・カレッジ」は下の部分に標示されています。大学の少し手前の緑の郊外から始まって、街に入ります。やがて大学の風景になると、紹介が2分くらい続きます。大学の外観は、7:50分当たりから10:00までで、かなり長い映像が見られます。後半に卒業式が行われる講堂も出てきます。
 大学の映像が終わると、宗教改革の騒動で破壊されて廃墟になった大聖堂。続いて有名なゴルフ場が出てきます。セント・アンドリュースというと、私はこのゴルフ場の名前しか知りませんでした。




P.5の終わりごろ
 大学の前で、ある車のドライバーが車を止めて、「ここからグラスゴーまでどうやって行けばいいですか?」と質問を受けたとしたらどう説明するか、という場面が出てきます。グラスゴーって? 名前だけは聞いたことありますが、イギリスに詳しくないのでどこか分かりません。

 ということで、以下に地図を作ってみました。こんな感じなのですね。ほぼ一直線。たしかに途中に大きな川があります。(地図をクリックで拡大)

アンドリュースからグラスゴ

P.6 
「二つの本を「シンプル」な内容にまとめるのは比較的簡単ではないか」といううことで言及されている彼の以前の著作。
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「イエスと神の勝利(Jesu and Victory of God)」(1997/08)

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「イエスのチャレンジ(Challenge of Jesus)」(2000)


P.8「チェルシー・フラワー・ショー」
「第二部の内容があまりに豊かなので、まるでチェルシー・フラワー・ショーの案内人になった気分」という言葉が出てきます。フラワー・ショー?
 大規模な国際的な花の展覧会、ガーデニング関係の展示があるようです。私はこれも初めて知りました。動画は長いので適当に拾い見をどうぞ。





P.11「(父が三日で読んだ)復活についての膨大な本。700ページもある」

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The Resurrection of the Son of God(2003)


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(紙上対談)新刊『風をとらえ、沖へ出よ』の訳者に聞く

 2017-02-23

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今年1月に発行されたチャールズ・リングマ著『風をとらえ、沖へ出よ』。
書評が「キリスト新聞」、雑誌「ミニストリー」に掲載されました。
そこで訳者の深谷氏に、紙上インタビューということで、いくつかの質問に答えていただきました。本書を読む上で、参考にしていただけたら幸いです。

 訳 者:深谷有基(フリーランス編集者、執筆者)

インタビュー:小渕春夫(あめんどう)

 

はじめに

——完成した本を目の前に、いまどんなお気持ちですか?

深谷 ようやく「出帆」したな、と。もっとこなれた訳にしたかったですが、それではいつまでも出ないので、あとは読者の皆さんに補っていただき、議論のきっかけになればと思います。この本が著者も驚く形で日本語訳になったように、この日本語訳が訳者も驚く形で沖へ出て航海を進めていくことに期待しています。

 

——訳者としてはカタカナをできるだけ避けたい気持ちがあったと思いますが、「オルタナティブ」「エンパワーメント」「インフォーマル」「ミニストリー」などあえてカタカナのままにしたようですね。そのへんの苦労はいかがでしたか?

 

深谷 非常にもどかしかったです。辞書的に訳すともう一つの意味が抜け落ちてしまうとか、あるいは日本語だと違うイメージになってしまうということがあり、かといって補足していくとまどろっこしくなってしまうし。

 

どうしたらしっくりした日本語になるのか、ここはひとつ読者の皆さんにもご一緒にウンウン悩んでもらいたいです。それ自体が、「文脈化」の作業だと思うので。あるいは、翻訳を超えて、すでにある日本語のなかでもっと相応しい言葉に置き換えてもらえれば、なおよいかもしれません。

  

著者について

——リージェントカレッジでリングマさんの授業を受けたそうですが、どんなお人柄ですか?

 

深谷 私は彼のサマーコースしか受講していないので、お人柄をそこまで深く知らないのですが、わりとひょうひょうとした人だなと思っていました。あとはとにかくスタイリッシュで、こういう風に歳をとりたいなと思いました。

 

むしろ、翻訳作業のなかで、彼の人柄を知ったという感じです。この本を読めば、彼の人となりが多少なりとも、うかがい知れるのではないでしょうか。

 

本書の推薦文を書いてくださったジェームス・フーストン先生から教えてもらったのですが、リングマの家族はナチス占領下のオランダで地下に潜ってレジスタンス運動をしていたとのことです。それを知って、本書にあふれている彼の反骨精神について妙に納得しました。

 

本書の特徴
——詳しく書いたら専門書並みの厚い本になってしまうところを、簡潔に、わかりやすくまとめられています。過去のさまざまな神学者の意見、世界の共同体形成の多様な取り組みの姿も垣間見ることができます。日本にいると、なかなかわからないことばかりです。

 

深谷 本書がユニークなのは、抽象的な「教会論」を限りなく排しているところですね。その代わりに、教会内ではこれまでほとんど考慮されてこなかった社会科学的な視点で、しかも一般向けに共同体を見直してみようというわけです。これは西洋キリスト教界のなかでも希有な視点だと思います。日本にいるから、わからないという話ではないと思っています。

 

 ——現代人をとりまく文脈をよく理解し、その必要に応えることに関して、教会は社会に遅れをとっているのではないかという危機感も述べられていると思いますが。

 

深谷 これは日本のキリスト教史とも関係するでしょうが、そういう事態に陥る背景として、教会の使命を福音宣教か社会運動かの二者択一で捉えてしまうという問題があるのではないかと思います。どうしたら教会はそのような不毛な議論から抜け出し、時代や社会にさきがける変革の旗手となれるのか。リングマが指摘するように、聖書やキリスト教史の読み直しがどうしても不可欠だと思います。

 

——既存の形に不満を抱いてオルタナティブなあり方を求めても、やがてそれも形式化しうる。どんな形であろうと、その中心に何があるかが重要であり問われる、というのが本書の主眼だと思います。

深谷 この本が翻訳に値すると思ったのも、まさにその点です。リングマがリージェントの講義でも言っていた印象的な問いがあります。教会は“center-centered”(中心とすべきを中心とした)になっているか “marginal-centered”(周辺的なことを中心とした)になっているか、というものです。私たちは前者を自認していながら、ふと気づけば後者になっていることが多い。いや気づかないことのほうが多いでしょう。それを自覚することってじつはすごい難しいし、痛みを伴うことだと思います。「預言者」が迫害されるのもそのためでしょう。人間がつくるいかなる集団も正統化・正当化しえない、と常に確認しつづけるしかないんでしょうけれども、これがなかなか……。


本書で使われている用語について

——いくつかのキーワードが出てきますが、そのなかからいくつか短く説明していただけませんか。

 

教会員の疎外とは教会組織の自己存続が優先され、肝心のメンバーの課題や、すでにそれぞれがしている「ミニストリー」が置き去りにされてしまうという本末転倒(すでにパウロがさんざん手紙で怒っていることですが)。

 

庇護体制とは「あなたは私の庇護が必要だ」という大義のもと、人々に権力と責任を付与せず、いつまでも従属させておこうとする体制。教会は霊的にもこうした力関係を迫るので、なおさらやっかい。

 

意図的共同体——Intentional communityという用語そのまま辞書的に訳しているのですが、そもそも共同体は意図的に形成するものではないのかと思われるかもしれません。たしかにそうなのですが、やはり気づけばそうでなくなってしまうのが人間集団の性質かもしれません。まさにパウロが第一コリント書、とくに12章で教会共同体を「からだ」にたとえて提起している問題です。実際の、とくに経済面も含む日常生活において、「一つのからだ」であるか、と自覚的に、定期的に確認し合うことを前提にした共同体と言えばよいでしょうか。



真のチャレンジとは

——さて、深谷さんは東日本大震災の復興支援の働きもされたそうですね。そこから見えた、地域に開かれた教会のあり方など教えられたことがありましたら、少しお話ください。

 

深谷 こちら側の都合である狭義の「宣教」を優先させてはいけない、ということでしょうか。地域の町内会や福祉行政、NPOなどとも連携して、まず教会が置かれている地域の現状と必要をよく理解することが決定的に大事だと思いました。そもそも教会員も地域に暮らす人々ですから、その人たちにまず聞くだけでもぜんぜん違うでしょう。その上で、地域の人々と信頼関係を築くことができれば、自ずと使命は見えてくるはずです。ですが、真のチャレンジは、そこに留まらず、その使命のために自らのあり方を「具体的に」変える信仰を持てるかどうか。それがまさにリングマの提起するチャレンジでもあるかと思います。

 

今日は、貴重なお話し、ありがとうございました。

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日本伝道会議を振り返る「毎日10個のいいこと探し」

 2016-12-02
 今年の後半を振り返ると、第六回日本伝道会議の参加が大きかった。私は第一回の京都大会があった記憶はあるが、参加したのは今回が始めて。もうその記憶も薄れかけている。しかし、珍しく記録をつけていたので、振り返ってみたい。
 インターネット環境が普及してから初めての大会かもしれない。とくに近年、Facebookを通しての交流は目覚ましく、私にとって、今回の大会の背景にそれがある。
 私が記録したのは、つねづね私が悲観的な性格なのを妻が見て「毎日、よいことを10個探して書いてみては?」と言われたためだ。つまり、無理やり、いいことを探すのだ。「毎日、三個は書いてみよう」というのはよく耳にする。10個だと「うんうん」言いながら思い出さないと書けない。しかしその過程で思わぬ発見もあって、掘り出し物もたくさんある。

登場する人についてはアルファベットで記した。

IMG_2697.jpg 9月27日(火)
(1)朝、神戸行きのために自宅から東京駅へ。準備が珍しく早く済んだので家を早めに出る。余裕。

(2)朝早かったため、いつもの洗濯物干しは免除。よりゆとりがあったのだろう。妻にはすまない。

(3)電車内でNT.ラ.イト次回作、全15章のうち、第15章の一回目校閲(編集)開始。昨日プリンターが故障したが、他の機械を貸してもらって難を逃れた。ありがとう。

(4)東京駅のホームで、待ち合わせたSさんと予定どおり出会えた。弁当も買う。たくさん種類があって困ったが、定番らしそうな「新幹線弁当」にした。

(5)新神戸駅着。乗り換え、神戸三宮駅で降りて予約ホテルにチェックイン。その後、二人で会場まで行くポートライナー三宮駅を探し周る。ライナーの窓越しに海の側から眺めた神戸が思ったより大都会で感動した。

(6)神戸の会場で、初めて会ったFB上の知り合いたちとすぐ打ち解けた。もう前から顔見しりみたい。リアルに会えて楽しい。

(7)ブース展示の皆さんとも会話。いろいろ働きを知れて、資料ももらえて、見聞が広まる。

(8)今日から始まったセミナー会場は大きく、素晴らしい。必要経費数千万のうち、参加費で3割強。献金で7割弱を集めたいとする主催者の挨拶。その無茶振りに驚く。過去、そうやって実現したきたのだろう。さすが。

(9)一日の研修を終え、Oさん、Iさん、他の牧師さん方と数人と連れだち三宮近くの喫茶店へ。Iさんとは独占状態でライトの翻訳体験について話せ、楽しかった。

(10)予約したホテルは、新幹線とセットの割引価格。同行者とのツイン部屋。欧州風のレトロな作りで、イタリア中世の館みたい。落ち着ける。

(おまけ)代理店からメール受信。期待していたライトの次の本の版権が取れそうとの報。バンザイ。静かに喜びを噛みしめながら眠りにつく。

IMG_2706.jpg 9月28日(水)
(1)朝食が、和洋中とメニュー豊富。色どりが素晴らしい。初回で食べ過ぎ。次回から落ち着いていこう。

(2)ポートライナーの朝のラッシュは聞いていたほどでなく(東京に慣れているから?)、時間に間に合ってよかった。

(3)クリス・ライト氏のメッセージは福音について。実によかった。ほとんどN.T.ライトとそっくりではないか?

(4)ランチは年代別食事会という趣向。意外な組み合わせで楽しく、話して共感できることが多かった。

(5)分科会①神学ディベート、「ライトの義認論」。それなりのやりとりになり、よかった。現状と課題が見えた気がする。

(6)分科会②で、Yさんの「東方教会入門」を聞けた。新しい知見もあり、出てよかった。

(7)夜、三宮の繁華街で「FBオフ会」。ライト支持派(というか、学びたい人)が中心に集まる。K、S、I、Y、A、O、私、その他不明の人を含め12〜3人。お顔だけ知るSさんと親しく話せてよかった。

(8)ホテルへの帰り。道を1つ間違えた。周りはまるで新宿歌舞伎町で妖しげ。しばらく行って迷い、立ち止まったら、先ほどのオフ会のKさんが後ろから声をかけてくださった。彼のホテルが近くらしい。苦笑いして別れて帰宿。

(9)同行のSさんは先に帰宿。彼は別行動をし、関西方面の知り合いと面談してきた。私も知る人たちの近況を聞けてよかつた。

(10)昨晩は初日でなかなか寝付けなかったが、今日はグッスリ眠れそうだ。

IMG_2699.jpg 9月29日(木)
(1)朝食をSさんと一緒に楽しむ。

(2)会議場への乗り物、ポートライナーは今朝もそれほど混んでなかった。

(3)クリス・ライト氏の3回目説教。エレミヤ書から。励ましの内容でとてもよかつた。

(4)ランチタイム。支給の弁当。今日は同じ神奈川県に住むグループごとに大部屋で集まり、その中で流れで小グループに分かれた。そこでN.T.ライトについての質問が出て、私がいろいろ説明したら、大変喜んでもらえた。

(5)午後二時から神学の部の分科会。「NPP」を選ぶ。参加者にはまだ初心者も多い(私も初心者だが)のか、入門の入門で終わりそうな感じだ。最後のまとめで、ライトに賛同しない人の意見も聞けて貴重だつた。

(6)休憩時間。FBで知りあいのM牧師さん、それに、私が大変お世話になった牧師の後任牧師さんと話すことができた。初対面だった。またFBで知る論客のKさんとも初めて。妻の入院について心配いただいく。Kさんの奥さんと妻は、かつて同じ教会だったのだ。へえー。

(7)あるワークスショップに参加。私にとっては期待外れだった。ただ講師には大いに好感を持った。

(8)帰り。私が前に所属した教会の知り合いであるOさんと久しぶりに会う。同行のSさんと三人で乗り物に。会話がはずんだ。

(9)阪急六甲駅近くの教会堂まで移動。立派なパイプオルガンとクリス・ライトさんの説教が聴ける。疲れたせいか私は私は寝てしまった(苦笑)。集会後、なんと尊敬する先輩夫妻とばつたり。互いに再会を喜ぶ。少し話せてよかつた。

(10)夜、宿で同行のSさんと学んだことの分かち合いができた。二人旅のいいところだ。

IMG_2708.jpg 9月30日(金)
(1)重くなった荷物を持って宿から退出。ポートアイランドに移動。乗物も空いていて、会場に充分間に合った。

(2)クリス・ライト師の説教。最後にふさわしく実によかつた。キリスト者の一致、教会の一致について。とても重要だ。最後であることもあるのか、いちばん記憶に残りそう。

(3)毎回だが、説教が終わると机ごとの感想の分かち合い。四日間同じメンバーだった。互いの個性、背景の違いが出て面白かった。プログラムでは「コイノニア」と名づけられた時間。

(4)ふだんは外国に住んでいる先輩のDさんが参加していたことが分かった。同じ会場なのに部屋がバカでかく、しかも大人数で出合うのも大変だ。同じ部屋なのにスマホで連絡をとる有様。結局、5分だけしか話せなかったが、励ましてもらった。

(5)Kさんの提案で臨時ランチ会。Aさん、Iさん、Nさん、Oさん、私と、Kさんの車で移動。新神戸駅近くで、見上げるほどの針葉樹が庭にある店「サンマルク」。Kさんは送迎で大変。私はランチ途中で新神戸駅まで送ってもらっった。何から何まで恐縮。ありがとうございます。

(6)サンマルクで隣に座ったIさんは、大会プロジェクトの1つを担当なさったが、そのテーマの素晴らしさ、重要さを称賛した。ほんとにそう思ったからだ。喜んでもらえた。

(7)駅は20分前に着き、時間の余裕あり。家族に土産を買えてよかつた。手ぶらだったら子どもたちから大ひんしゅくだ。

(8)改札に入ったら、セミナーの机グループ「コイノニア」で一緒だった牧師さんとホームで再会。連れの方が私も関係する方の幼友達だと知って面白かった。同教団の大御所N先生の面白い話も聴けた。

(9)新幹線は大変混んでいた。指定席でなかったらどうなっていたことか。同行のSさんと静かに落ち着いて過ごせた。疲れも取れそうだ。

(10)東京まで割引切符だったが、家に近い新横浜で無事降りることができた。今回は四日間と長かったが、収穫も多く、また無事帰れたことに感謝した。とてもよい大会だったので、たとえば五輪のように4年ごとにあってもいいいと思った。しかし、大規模なので準備する主催者が大変。やはり7年ごとになるらしい。ヨベル年に倣ったんだろうね。

IMG_2700.jpgIMG_2716.jpg

おしまい。


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コブクロの名曲

 2016-06-15
有名なんですね。コブクロの曲。たまたまテレビで対談番組があって、コブクロのベスト10をやっていて、思わず聞き入ってしまいました。そのなかでもダントツの一位で『蕾』。しばらく毎日聴いいてみたいです。

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新年対談「N.T.ライト元年を振り返って」(3)

 2016-01-26
話し手:小嶋 崇(聖泉キリスト教会牧師。N.T.ライト・セミナー主催者)
聞き手:小渕春夫(あめんどう)

──ライトは、被造物を含めた大きな全体像のなかで救済論を論じています。それこそが救済論であると。

〈小嶋〉そうです。ですからライトは、そのようにしてこれまでの議論の枠を組み替えてしまうわけです。

──ライトは個人の救いを除外しているのではないが、もっと大きな枠のなかで個人の救いを扱っているのですね。

〈小嶋〉そこに大いに誤解されるところが含まれています。いくつもの重要な大きなテーマが束になって全体を示しているのですが、問題にする人は、そのなかの個々の問題に集中し、それがひっくり返されてしまうのではないかと脅威を感じるのでしょう。福音ということの中身、意味を変えてしまうように見えてしまう。そのへんの扱い方が、なかなか難しいのです。

──救済・救い(サルヴェーション)という言葉を、私たちは個人レベルでこれまでひんぱんに使ってきたので、ライトの枠組み、世界観を理解すること自体がなかなか大変です。

〈小嶋〉そこで世界観レベルで見たとき、ライトは個人や民族については救出(レスキュー)という言葉を使っている。そうしたほうがその本質が見やすくなる。「どこからどこへ行く救いか」というときにわかりやすい。ただしこれまでの義認論は、「この世からあの世への救い」、この地から天(天国)への移動という、ギリシャ的な二元論の枠組みで救出を理解してしまいます。

 そうすると「サルヴェーション(救い)」であろうが、「レスキュー(救出)」であろうが、両方が聖書全体との整合性がなくなってきてしまいます。


多くの人にどれだけ話題になるか

〈小嶋〉この問題の理解は、誰か一人が説明して浸透していくというより、読書会などをへて、「自分はこれまでこう考えてきたけど、こう変わってきた」と、多くの人の証言が集まってくることで変わってくるのではないでしょうか。

 これまでは個人だけで感じていても、「自分は勘違いしているかもしれない」となることがありますが、周りの人たちの何人も「いまはこう考えています」となってくると、「そういうもんですよね。それは私ひとりが思っているのでなく」となり、全体で変わってくると思います。

──こうした神学理解、聖書理解の見直しは、文献を一冊読んだだけでは限りがありますよね。今回の『クリスチャンであるとは』の翻訳で、いくら注意を払い、言葉を選んで文字にしてきたとはいえ。

〈小嶋〉テキストというものを正確に読める人、たくさんのことに気づき、違いの分かる人はけっこういると思います。それは読書だけを通しての理解というより、その人のそれまでの生活体験、聖書理解を通してですね。これまでのいろんな理解、信仰体験を総合し、照合して、確信が深まったり、洞察が深まったりするわけです。

 本だけというより、いろんな生活上の相乗効果で読み取ることだと思います。だから適当に訳してもいいということにもならない。著者の意図を正確に汲みとって文字に再現していかねばなりません。ただ、生活体験、思想が深い人は、共感するレベルが違うので、結構深く感じるところは感じる。

 本のなかの個々の細かいこともありますが、本の持っている全体的な主張に共感できたり、波長が合ったりする。全体的なトーン、方向性に自分の波長が合って理解できる。自分の関心、体験、人生、知識を通して共鳴してしまうものがあるのですね。


これからの期待は

──ライトの本が今後も翻訳出版されてきそうですが、今後の楽しみは何でしょう?

 NOPG上沼対談〈小嶋〉予想が難しいですが、『新約聖書と神の民』がどれだけ読まれか、理解されるかが試金石となるでしょう。その話題が、学者だけでなく一般クリスチャンの口の端にどれだけのぼるかどうかですね。よく知的に理解できたかというより、話題性、インパクトをどれだけそこから得ることができたか。

 もちろん、内容の理解もあります。ただ、それがなかなか難しいです。英語で読んでむずかしかった人が、日本語で読んでどれだけ「ああ、なるほど、そうか」となっていくかどうかですね。

──専門書においても、読んで受け取ったこと、感じたことを言葉にして発信し、それに応答していく流れが生まれて、互いの理解を補い合っていけたらいいでしょうね。

〈小嶋〉『新約聖書と神の民』を読んで、『クリスチャンであるとは』で読んで得たものがつながって、全体として組み上がってくる相乗効果があるといいですね。すると、ある翻訳書で充分表現しきれなかったところや足りないところが、別な本で分かってくるということが起こってくるといいと思います。

 順番としては、『クリスチャンであるとは』が最初でよかったと思います。全体像を見て、次に『新約聖書と神の民』という、がっちりした学究的な専門書に、興味のある人が入っていくといいかなと思います。

──『新約聖書と神の民』は上巻が昨年末に出ましたが、下巻の出版はいつになるでしょうね?

〈小嶋〉下巻は、今年中に出るのではないかといううわさを聞きます。大変なのは今回出版された前半です。翻訳者も大変だったと思います。私たちはたいてい、理解可能な日常レベルの言葉で、日常的に分かる範囲で聖書を読んでいます。

 今回の上巻は、「どうしたら聖書を正確に読むことができるか」という、聖書を読むための下地となる部分ですね。そこまで関心を持っている人にしっかり読んでもらって、それが吸収されて、その吸収した人から多くの人のために、うまく解説してもらえるといいですね。すなわち、聖書が書かれた当時の世界観の問題です。

 紀元1世紀の地平でイエスやパウロを理解するとなると、彼ら自身の世界観に入っていかないと意味が充分にはわかりません。単に新約のこの箇所を読んで、「それをどう理解したらよいか」ということでなく、聖書が書かれた時代のユダヤ人たちが、世界、歴史、自民族の意味を、全体としてどう理解していたかです。その世界観にまで入っていって、ニュアンスを受け止めて読んでいくという作業が求められます。

 繰り返しになりますが、1世紀のユダヤ人たちがそのとき、どういう言語をどのように用いて、この世界や聖書を理解していたか、その世界観を理解したうえで、当時の文書のニュアンスをキャッチする。そういう作業をせずには、1世紀に書かれた新約聖書の文書全体が見えてこない、という問題意識がそこにあると思います。

 そのためにライトは、第二神殿期のユダヤ教文書をしっかり、総合的に理解し、理論的に整備して今回出た本を書いているんです。そういう背景をとらえておくと、かなり専門的な内容の本ですが、より読みやすくなるのではないでしょうか。

──そうですか。それは読むのが楽しみですね。
どうも今日はお時間をとっていただいて、まことにありがとうございました。(了)


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新年対談「N.T.ライト元年を振り返って」(2)

 2016-01-22
話し手:小嶋 崇(聖泉キリスト教会牧師。N.T.ライト・セミナー主催者)
聞き手:小渕春夫(あめんどう)


イギリスの新約学のただの援用ではない

41ePMrPjNgL.jpg──ライトの神学上の貢献、彼の神学的主張は、彼のオリジナルではなく先行する学者の研究成果をもってきていると指摘する人もいますね。(画像は『クリスチャンであるとは』の英国版)

〈小嶋〉はい。そういう人がいますね。ライトの神学思想はイギリスの新約聖書学の土台の上に築かれた学識だという意見です。それは正論だと思います。ただ、そればかりではない。そうだと認めると、今度は針が逆に触れ、彼の神学のほとんどが受け売りではないかとなってしまう。学問的業績を認めない極論になってしまいます。

 ライトがあまりに国際的に活躍し、神学者としての存在感を増しているので、やっかみ半分というか、バランスを取りたいというか、ねたみからくる冷やかしもあるかもしれませんね。(笑)

 イギリスの新約学の蓄積の上に立っているのはもちろん正しいですが、だからといって、単に前の学問をリピートしているレベルの問題ではない。統合というか、総合というか、彼のすごい学識や独自の神学的手腕を認めるべきだと思います。それを世界的に著名な神学校、教授陣が高く評価していますし、いまやN.T.ライトの存在は無視できません。

———日本での神学会の動きはどうなんでしょう。

〈小嶋〉藤本満著『聖書信仰』という聖書論の本が、昨年、タイミングよく出ました。聖書批評学の問題に取り組むことが、今後、他の問題に先がけて始まるかもしれませんね。
 この本は、一昨年(2014年)、福音主義神学会で発表したものが元になっています。当時はその後、他の人が大きくとりあげるという印象はなかったですが、その後、聖書信仰についてある種の開眼、これまでの個人によるさまざまな神学的模索が複合したことで、まとまった本ではないでしょうか。


神学会の活性化とインターネットの影響

〈小嶋〉じつは私も福音主義神学会にずっと出席しているのですが、どうも停滞感がありました。何年たっても面白い研究が出てこない。それがインターネットのブログの影響だか知りませんが、私も「こんなんでいいの?」と批判したのも火をつけた一つかもしれません。若手の研究者が動き出したのではないでしょうか。

──みなさん何かのきっかけを求めていたかもしれませんね。どこから手をつけていいか分からなかった。何とかしたくても、まずテーマを決めて招集し、会議し、コンセンサスを得て役割分担して、と、手続きのために延々と時間がかかる。
 でも、インターネットのフラットな場では、教派間のへだてや組織としての手続きを軽々と突破し、関心ある個人のつながりで広がり、情報や意見交換が自由に飛び交う。

〈小嶋〉そうですね。中央からの発想でなく、在野の研究者がインターネットで声を挙げるようになったのも、影響が大きいでしょうね。いままで書けなかったり、書く場所が与えられなかったり、組織のための内向きな発信が多かったのが、個人レベルで外向けに発信できるようになり、そこに他の個人の反応が生まれ、広がる。

 面白いのは、Facebook上に福音主義神学会の部門会の開催情報を知らせるようになったことも影響あると思います。これまで人があまり集まらなかったんです。二年、三年前まで。しかし、最近は集まるようになりました。二年くらい前に御茶の水のホールであったNPPについての研究会は、100名くらい集まりましたね。

 その学会で登場した人も、聴講に参加した人も、結構多くの人たちがFacebookのライト読書会と多少関係ある人でしたね。そこからインターネットを駆使する若手の神学研究者へ広がり、集まるようになったんじゃないかな。

──組織や立場によって分断されていた個人、単独で関心を持っていた個人が、小さな火が集まって大きな炎になるように、一堂に会した感じですね。


NPPとは何か? それは脅威か?

〈小嶋〉テーマも関心を呼びましたよね。これまで神学上のテーマとして、コントロバーシャルなものが演題になることはなかったですから。つまり、外向きなものでなかった。

──演題自体が関心を呼んだのですか?

〈小嶋〉そうですよ。NPPですからね。関西では取り上げていましたが関東ではこれまでなかった。

──NPPと言われても私にはさっぱり分からないのですが。

〈小嶋〉New Perspective on Paulですよ。

──その言葉は知っていますよ。そこに含まれた意味が分からないのです(笑)。最近の福音主義神学会である人がこう発言していました。「すでに30年前くらいから国際的な神学会では議論されているし、いまさら〈New〉ではないだろう。なぜ日本でいまごろ取り上げられるのか」と。
 それは一言で言って義認論のとらえ直しですか?

〈小嶋〉義認論はそのなかの一つに絞られたテーマです。とくに福音派のなかのカルヴァン神学の信奉者に、いちばんひっかかる点ですよね。ただ義認論と言っても、そこには大きな範囲があるので、ある神学に立つ人にとっての中心的な柱なのですが、その大もとを揺さぶるものがあるということです。

──へえ、そんなに大きな影響があるのですね。

〈小嶋〉そうですよ。これまでないくらいの人が集まったってことが、それを示しているでしょう。ただね、脅威を感じるのはわからなくないのですが、問題は、脅威を感じるようなライトの神学の読み方がそうさせているのだと思います。いったん、脅威を感じるような読み方をしてしまうと、そういうふうにしか読めなくなってくるのですね。落ち着いて、公平に冷静に読めなくなってしまうので、反動的に反応してしまうということですね。

──それは「救いとは何か」と関係するのですか?

〈小嶋〉いわゆる組織神学的に言うと救済論ですね。「人はいかに救われるか」「救いとは何か」ということです。宗教改革のなかのカルヴァンの伝統である義認論は、救済論のなかに含まれる最も土台となるものです。


救出(レスキュー)か救済(サルヴェーション)か

──『クリスチャンであるとは』のなかに出てくる「救い」、すなわち創造から新創造にいたる大きな展望の中で、ライトは人間を含めた全被造物が神の意図した創造の目的にそって回復され、正されることを、「救済・救い(サルヴェーション)」と言っています。

 今回の本には、「救い」という言葉はほんの限られた箇所だけ出てきて、他は「救出」となっています。読んだ人がそれを意識できるかは分かりませんが、「救い」を巨大な枠でとらえていることが分かります。

〈小嶋〉そういう概念の「救い」は私たちの意識の底にはあるのですが、もっぱら意識してしまうのは、人についての義認論です。罪人である個人がどう救われるか、どうやって原罪を負った個人の救いが実現するのか、どうすれば神の前で人が義(ただ)しいと認められるかが、いまのもっとも重大な関心の中心になっています。

 そうなると、建前として新天新地の実現を肯定してはいますが、それとあまりつながらないというか、神学的に厳密に議論する対象でなくなっています。
(続く)
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新年対談「N.T.ライト元年を振り返って」(1)

 2016-01-18
話し手:小嶋 崇(聖泉キリスト教会牧師。N.T.ライト・セミナー主催者)
聞き手:小渕春夫(あめんどう代表)
場所:聖泉キリスト教会の工房にて
(取材は昨年12月です)

──こんにちは。お時間を取ってくださりありがとうございます。
 ご近所に、つい先日ミシュラン一つ星を獲得したラーメン店があって話題ですね。
 帰りに店を見て帰りたいです。(笑)

 さて、昨年は小嶋先生が「ライト元年」と名づけたことを覚えています。先生が呼びかけ人の一人であるN.T.ライト・セミナーが、昨年10月に四回目(年一回)を迎えました。これまで、かなりの人が参加しましたね。そして昨年末、ライトの主著『新約聖書と神の民(NTPG)』(新教出版)も出版を迎えました。いま、どんな感想をお持ちですか?


波紋状に広がっている気配とライトへのかすかな警戒感

〈小嶋〉ライトを知る輪が波紋状に広がっているのを感じます。同時に、それを警戒する声もかすかに聞こえてくるのが興味深いですね。
 『クリスチャンであるとは』に対するというより、ライトの神学一般が今後、浸透してくるという想定のもとでの反応ですね。神学会レベルもありますが、一般レベルでもネット上に少しずつ出てきているのが分かります。

 正面からテーマにならなくても、しばらく前から日本の神学会でライトの名前がよく口にのぼるようになったといううわさを聞きます。注目すべき人物だという認知が、あちこちに広がっているようです。

──アジアの英語圏でもライトはすでに充分知られているでしょうし、欧米の有力神学校でライトは必読書でしょう。一般信徒にとっても信徒向けの本が英語圏でずいぶん普及していますし、YouTube上では、彼の講演の動画がたくさん視聴できます。

 Facebookで知り合った米国在住の日本人女性がいます。国際結婚をしていらして、二人の娘さんがいますが、二人とも東部のキリスト教系大学で学んでいます。
 そこの学生は『クリスチャンであるとは』が必読書だそうです。邦訳が出たということで娘さんに「知っているか」と聞いたら、二人ともすでに持っていて、「ママも読んだら?」と薦められたそうです。

 さて、警戒の声を上げる人もいるようですが、その反応は無理もないことなんでしょうか?
 義認論、救済論、無誤論、史的イエス研究との関係で警戒しているのでしょうか? 

〈小嶋〉無誤論などは、一部の人の話題になっていますが、他のことでの警戒は、ライトの神学全体に対するものというより、個々の具体的な争点のことですね。英語でかなり読める人は、どういうわけかあまり問題にしない。かなり高度なアカデミックな議論になるので、一般的向けに議論しなくていいというスタンスだと思います。

 つまり、ライトを広く読んで知っている人ほど、あえて金切り声をあげて警戒する人は少なく、より狭い関心領域にこだわる人が「危ない」と言って赤旗を挙げたり、黄色い旗を挙げたりするのでしょう。

──新しいものが入ってくるときは、全体が見えず、得体が知れませんものね。
でも、どういうわけか何十年も日本に紹介されてきませんでした。
 当社が『クリススチャンであるとは』を出版したのは、出版社として著者の神学を何もかも理解し、全面的に賛同したからというより、必要とされているのに日本では読めないという危機意識からです。
 発行者の私も、一読者として「果たして本当だろうか」と、勉強しているプロセスにいます。

〈小嶋〉警戒する人のだいたいは間接情報で判断していますね。直接、ライトの専門書を読んで反論している人は少ないです。自分が信頼している欧米の人の反応を見て、それに影響されている。
 まあ、ある程度の彼のファンでないと、彼の専門書を時間をかけて深く読まないですからね。


インターネットの威力

th201601191449342.jpg──小嶋先生はインターネット上で、何年も前からライトの論文を訳して載せています。いつごろからなさったのですか?
 関心を持って学んでいる方は前からいるにしても、誰でも読めるように紹介した意味では、先生は日本での開拓者ですね。
 私は何度かそのサイトを読もうとしたのですが、なかなかむずかしくて。

 ただ私は、Facebook上の読書会を通じて、少しずつ彼の神学になじむことができました。それでもまだまだですが。(画像は「N.T.ライト読書会」)


〈小嶋〉サイトにライトの翻訳文を載せるようになったのは、2007年からです。
 インターネットのブログとか、英語圏のスタンダードは、だいたいどれも無料で公開しています。フリーで閲覧できる。世界の学者は、自分の成果をどんどん読んでもらいたいからでしょう。

 その精神を受け継いで、サイト上だけで読んでもらってよいという条件で許可を得ました。ですから、たとえ個人用でもプリントして読むのは違反なんです。
(閲覧のみ許可はThe New Dictionary of Theology=新神学辞典の四つの論文。他のものはコピー自由)

──ネット掲載を始めたのは、ご自身が学びたいのがきっかけですか?
 ライトから学んだ知識を分かち合いたいので、そうしたのでしょうか?

〈小嶋〉サイトに載せたのは私がライトを読み始めてから7、8年たってからです。そのあいだ、「この学者は、すぐに大きく取り上げられる人だろう」と想定していました。しかし、いつまでたっても話題にならないのです。日本で書かれたり研究されたりして当然なのに、いつまでたっても始まらない。これは、何かあるのだろうか? おかしい。何かがじゃましているのだろうか? ということで取りあげ始めたのです。


Facebookでのライト読書会での学び

スクリー59──彼のことをもっと学びたいと、実際に顔を合わせての読書会もすでにスタートしていましたね。
 数年前からのさっき話題にしたFacebook上の読書会も始まって、いまは190人くらいのメンバーになりました。(画像はFacebook上の「N.T.ライトFB読書会」)

〈小嶋〉はい。関心のある仲間が集まってのリアル読書会のほうが先でした。ライトが使っている神学用語を理解しようということで、二人くらいで翻訳を読み合わせることから始まったのです。

──出版社としては、世界に影響を与えている神学者であると分かっていたのですが、まだ神学思想がつかめない。でも、2012年の3月くらいから始まったFacebookの読書会で、ようやく具体的内容に触れることができました。
 最初は「How God became King」、次に「Surprised by Hope」(邦訳進行中)を原書で読んだ人が感想を交換し合っていましたね。
 私はおもに読むだけの参加でしたが、そこで徐々に目が開かれてきました。

 そこで、欧米を通してキリスト教思想に滲みこんだギリシャ的二元論、やはり欧州発祥の啓蒙思想からくる文化的影響が、キリスト教会や自分にも根深く及んでいることを知り、驚きました。
 ライトを理解してくると、そうした歪みの皮を一枚一枚はがしていくような感じがします。そして紀元1世紀に書かれた聖書の世界に迫って、聖書全体を整合性をもって見始めるようになる。そのことで、自分のうちでも未解決ないくつかの問題に光が当てられました。そういう意味で、ライトの神学は非常に魅力的ですね。

〈小嶋〉ライトを読んで最初に感じるのは、それがいちばんのポイントではないでしょうか。キリスト教がいかにギリシャ的二元論に組み込まれているか、その問題を知って霧が晴れるように元々の聖書の世界が見えてくる。それが、いちばん印象づけられると思います。今後、翻訳出版される「Surprised by Hope」は、まさにそれを扱っていますね。
(続く)


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対談:『クリスチャンであるとは』発行後、半年たって(3)

 2015-12-21
上沼師へのインビューは今回で最終回です。

話し手:上沼昌雄(訳者。聖書と神学ミニストリー代表。神学博士。在カリフォルニア州)
聞き手:小渕春夫(編集者、あめんどう代表)
日時:2015年12月10日


聖書の無誤性、無謬性というテーマ

---今年の夏、上沼さんがいらしたとき、日本でのもう一人のN.T.ライトの紹介者、
小嶋崇牧師の教会で集まって、小さな祝いのときを持ちましたね。そのとき、
中澤啓介牧師がいらしてました。かつて35年前、聖書の無語性、無謬性について、
論争をし合った仲間だそうですね。

 私はその場にいて、その背景をまったく知らなくて、あとで知って少し驚きました。
N.T.ライトが取りもった再会だったと言えそうです。歴史的瞬間に私は立ち会ったようです。(笑)

 本書のなかには、伝統的理解になじんでいる人に物議をかもしそうなことがいくつか出てきますが、
「無誤、無謬論」もその一つです。そこにひっかかり過ぎると、聖書全体が伝える物語から離れた
果てしない議論になってしまう。否定はしないが、あえてその用語を使用しないとライトは言っています。
いまは上沼先生も、それに同感しているのですか?

〈上沼〉そうです。私がしていた無誤性の議論は、あくまで神学として議論
したつもりだったのですが、それが広く教界内に広がって、それを認めるか認めないかで、
福音主義かそうでないかとう言い方をされるようになっていきました。それを見て、
「明らかに違うところにきてしまった」と思いました。

---それはたしか、1980年前後だったでしょうか。私はまだそういう信仰をもって間もない初心者でして、
先輩が話していた「ムゴ、ムビュウって何?」と、ちんぷんかんぷんでした。
ただその影響下で育ってきたわけです。

〈上沼〉無誤性のこともありますが、救済史のことで村瀬俊夫牧師とも議論しました。
救済史と一般の歴史学がどうかかわるかが曖昧で、むしろ別々なものになってしまうという問題が
ありましたが、いまでも問題はそのまま残っています。
 N.T.ライトは、創造と新創造の間に一般の歴史が入るという言い方しています。
ですから彼の神学は、簡単に救済史と言ってしまうと誤解してしまうと思います。


義認論と和解論の和解

---上沼さんの今回の講演の中で、「義認論と和解論がN.T.ライトの中で和解している」という
面白い言い方がありました。

〈上沼〉
そうです。義認論と和解論というものがありますが、義認論だけを学んでいる人は、
なかなか和解論と調和できないでいます。義認論のほうがどうしても前面に出てきて、
和解論が後退してしまいます。一方、和解論を議論しようとすると、すぐにバルト神学に
移っていくしかありませんでした。これまで、義認論と和解論をどう調和させるのかは、
あまり考えられていないのです。

---では、N.T.ライトはそれをうまくつなげているというわけですか?

〈上沼〉はい、そうです。つながっています。ものの見事につながっていますね。
というのはこれまでの神学では、義認論の対象は人間だけですし、和解論となると、
その対象は万物になります。

---義認論は人間と神との関係だけで閉じられてしまって、そこに万物が入ってこない、
ということですね。

〈上沼〉そうなんです。和解論には万物が入り、そのなかに人間も入っています。
N.T.ライトの場合は、その意味であきらかに和解論を前提に神学のテーマの全部を扱っていることになります。
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---私はそれほど神学知識がないので、よく分からないのですが、
バルトを初め過去の大神学者も調和させることができてなかった、
ということですか?

〈上沼〉そうです。アメリカに移住する前の日本で気づいたことですが、
和解論について議論すると、すぐにバルト神学に行かざるをえないので、
当時の私は「和解論」という言い方はほとんどしませんでした。
でもいまは、バルトは神学シーンで背景に後退しきたために、
言葉にできるようになりました。


神の宣教(ミッション・オブ・ゴッド)という視点

---ということは、義認論、和解論という言葉でなく、新たな言葉が必要とされている
ということでしょうか?

〈上沼〉言うことができるとしたら、N.T.ライトが言うように、
「レスキュー・ミッション」ですよね。

---それは救済論にまとめることができるという意味ですか? つまり、救済論のなかに、
義認論と和解論が吸収されるということでしょうか? すみません、神学知識が弱いので、
見当違いのことを言っていると思いますが。

〈上沼〉いいえ、むしろ神のミッション(宣教)のなかに、
救済とミッションが一緒になっていて、その救済論のなかに、義認論と和解論が一緒になっている
と言えると思えます。
 そう言えるのは、神のミッションの最終目的が新創造であるからです。

---う~ん。そうですか。そして、そこから聖書をどうとらえるか、どう読むか、
どのような権威があるかを見ていくわけですね。

〈上沼〉そうです。N.T.ライトは本書で、天地創造から始まってイスラエルの歴史に入り、
新約ができるまでのことを説明していきますよね。 新約が書かれた紀元1世紀 の人が聖書の権威を
どのように見ていたのかを説明しています。聖書の無誤性とかのアプローチは、ずっと後の20世紀
の人たちによって出てきました。それを聖書に適用することに慎重な姿勢を示しているわけです。

啓蒙主義の呪縛か逃れるという課題

〈上沼〉ですから、その問題を本書で言っている程度でおさめておくことは、
N.T.ライトのすごい知恵だと思いますね。聖書が書かれたとき、人々がどうとらえていたか、
どういう権威を認めていたかを述べているだけです。

---すなわち、過去、福音派が距離をとってきたリベラル神学への態度、
そこへの反動として聖書の権威づけは、リベラル神学と同じ啓蒙主義的、
合理主義的なアプローチであったということですね。
そして、その理解の中に、巧みに反ユダヤ主義も紛れこんでいるという。

〈上沼〉そうです。そういうことですね。そしてその指摘を、たしかに
そうだとして私たちが認めることができるか。それが、今の私たちに問われていると思います。

---そうなると、欧州産のキリスト教神学には、とんでもないものが紛れこんでいるということですよね。
こんなことを言っていいのかな~。(笑)

〈上沼〉そういう歴史をN.T.ライトは全部わかっていて、ヨーロッパ人として
格闘しているのではないでしょうか。彼は、キリスト教なるものが、これからも真に意味あるもの、
命あるものとして存続できるかというテーマを、キリスト教会の衰退が著しい欧州で、
命がけで取り組んでいるのではないでしょうか。

---さまざまな異論はあるにしても、彼がもたらすものは非常に魅力的で、スケールが大きい。
しかも、それを取り入れるのに時間がかかります。私たちは、いまだに啓蒙主義的理解に
捉えられていますから。それを問いつつ、思索を深め、識別し、信仰生活に活かしていく
ことが求められますね。

 今日は、長時間、ありがとうございました。しばらくは疲れをとり、また来日の際には、
いろいろ刺激を与えてくださいますようお願いいたします。(完)

参考:ヨーロッパの啓蒙時代、思想、思想家
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対談:『クリスチャンであるとは』発行後、半年たって(2)

 2015-12-17
話し手:上沼昌雄(訳者。聖書と神学ミニストリー代表。神学博士。在カリフォルニア州)
   取材:小渕春夫(編集者、あめんどう代表)
日時:2015年12月10日

(記事中「本書」とは『クリスチャンであるとは』を指す)


旧約におけるイスラエル民族の位置

---本書の翻訳出版はあしかけ3年かかりましたが、上沼さんの聖書理解において、
何か大きな意識改革がありましたでしょうか?

〈上沼〉まず目が開かれたのは次のことです。神はご自分が創造した世界を
救出するためにアブラハムを選び、この世界に遣わし、契約を結びました。
 しかし、彼と、それを引き継ぐべき子孫、イスラエルの民自体が、救出を必要とする
存在になってしまったという指摘です。「神はどうしたらよいのだろうか」という
N.T.ライトの問いが、何度か本書に出てきます。それに対し、神ご自身がうめいておられること、
それは闇とは言えないにしても、N.T.ライトの神学全体が、それをとても重要視して
いることに気づきました。

 それと闇について書いた拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』(いのちのことば社)が、
私のなかで結びきました。今回、日本に行って、自分から言わなかったのに、
それを指摘してくれた方がいました。それが、私個人にとって一番大きな発見でした。

---ほう、そうですか。個人的神学遍歴というか、上沼神学と結びついたのですね。


歴史的な反ユダヤ主義との対峙、闇の問題

〈上沼〉あとは本書の第6章「イスラエル」で、N.T.ライトが反ユダヤ主義について
書いていますね。ライトは欧州人としても、キリスト教二千年の歴史のなかで、
その闇をきちんと見ていることへの気づきも大きかったです。

---それが、上沼さんが前から影響を受けているユダヤ人哲学者、レヴィナスの思想と
結びついたのですね。

〈上沼〉はい、そうです。私はいわば、レヴィナスを通してN.T.ライトにたどりついた
面があります。
 レヴィナスはユダヤ人哲学者として神の民の歴史を見たとき、その背景に神のうめきを
聴き取っているのではないかと思います。
 これはあくまで私の個人の関心事なのですが、いつか自分でまとめてみたい気がします。

---ユダヤ人として生まれ、その歴史的背景で活躍したイエス・キリストの存在。
欧州に根強かった反ユダヤ主義、20世紀のホロコーストの言語に絶する恐ろしい虐殺の現実。
それに対するN.T.ライト自身の神学者としての苦悩。なぜ欧州のキリスト教会が反ユダヤ主義
を容認したか、いや生み出したか、という深刻なテーマがありますね。

〈上沼〉本書12章「祈り」で、ローマ8章の御霊のうめき(P.229)をとても重大なもの
として書いていることは注目してほしいです。その重大性が、私のなかで明確になってきました。


創造と新創造という大パノラマ

---ほかにも、大きな意識改革と言えるようなものはありましたか?

〈上沼〉最初に触れましたし、何度もセミナーで触れたことですが、創造と新創造という
大パノラマです。それは、私にとっても大きな意識改革になりました。そして、この世界で
生きることために、もう少しそれを分かりやすく解説する必要があると思いました。

---そこには、西洋的キリスト教に深く混入しているギリシャ的二元論、とくに日本の福音派
に深く浸透しているある種の終末論、聖書解釈、その適用の捉え直しが含まれてきますね。
それらとどう対峙し、それを克服していくか。

〈上沼〉そのとおりです。それは大変なことですが、自覚的に取り組んでいく必要があります。
N.T.ライトが言う「天と地が、重なり合い、かみ合っている」という意味を真剣に捉えていく
必要がありますね。校正MG対談


日本伝道会議のC.ライトとN.T.ライト

〈上沼〉ところで、来年の九月に神戸での日本伝道会議で、
もう一人のライト、同じイギリスの神学者クリストファー・ライトが
招かれていますね。彼の神学思想であるミッション・オブ・ゴットについて
の論説が、最近、米国の福音主義を代表する雑誌「Christianity Today」11月号に掲載されていました。

---日本では数年前、その邦訳『神の宣教』第一巻(いのちのことば社 2012)が出ました。
そして、次の日本伝道会議に合わせて残りの二つの巻が出るのではないでしょうか。
 世界的にすごく評価の高い本ですよね。第三回ローザンヌ会議(ケープタウン 2010)の主講師で、その後の来日に合わせて上巻が翻訳出版されたと聞いています。


〈上沼〉N.T.ライトもミッション・オブ・ゴットについて講演しています。
ほとんど内容が同じなのです。クリストファー・ライトは、ミッション(宣教)と
エシックス(倫理)を結びつけています。アブラハムの神からの召し出しがミッションの
始まりであり、中核であるという理解です。CT誌を読みながら、それにN.T.ライトの神学的展望を
合せて紹介できたらと思いました。

---教会が担うミッションをどう捉えるかですね。牧会もそのなかに入ってくるでしょう。
「神の宣教」と「創造と新創造」の大パノラマが結びつき、それが私たちの生活での実践と結びつく。
そうなれば、知的理解にとどまらないかという懸念のブレークスルーになりますね。


「ストーリー」か「物語」か?

〈上沼〉12月に出るNTPGでは、Storyの訳語に「ストーリー」を採用しているようです。
今回のN.T.ライトの本でも、「ストーリー」か「物語」か、何度も討議しましたね。
 今回は意図して「物語」とし、類語であるNarrativeはカタカナで「ナラティブ」としています。
今後どちらに落ち着くか興味をもっています。小渕さんはどう思いますか?

---私は学者でないので、はっきり言えませんが、一長一短があるにしても、今は「物語」でも
「ストーリー」でもいいと思います。「物語」にまだ戸惑う人もいるようです。
『竹取物語』のように、作り物という印象を強く受ける人がいるのです。
 これは、時間をかけてどう浸透していくかだと思います。さまざまな文脈で用いられて、
どちらかに落ち着いてくるのではないでしょうか。

〈上沼〉哲学の分野も、20世紀的なシステム思考が崩れてしまったいま、次には「物語」
がくるとして、すでに使用されています。一般で影響力の強い村上春樹も頻繁に「物語」を、
小説だけを指すのでなく、現実の人生を表すのに使っていますね。
(続く)
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対談:『クリスチャンであるとは』発行後、半年たって(1)

 2015-12-15
N.T.ライト著『クリスチャンであるとは〈SimplyChristian〉』が出て半年以上がたちました。
そこで、翻訳者である上沼昌雄師に、Skypeを用いてインタビューしました。
三回にわけて掲載いたします。

話し手:上沼昌雄(訳者。聖書と神学ミニストリー代表。神学博士。在カリフォルニア州)
   取材:小渕春夫(編集者、あめんどう代表)
日時:2015年12月10日

(記事中「本書」とは『クリスチャンであるとは』を指す)
校正SC対談

---おはようございます。こちらは朝ですが、カリフォルニアは夕方ですね。
寝ぼけた声ですみません。しばらくインタビューさせてください。

 今年の7月と10月と二回、東京で計5回、札幌から熊本を含めると全部で10カ所以上、セミナーを開いてこられました。

 いまふり返って、そこでの反響やその後、気づいたことなど、
どのようなものがあるでしょうか?


地域差がなくなっている

〈上沼〉まだしっかり読んでいない人も含め、関心がかなり高いことがよく分かりました。深く読んでいる方は、とても反応がよかったですね。

 全国を回って感じたのは、地域差がなくなってきたことです。
かなり遠い田舎の先生が一生懸命読んでいたり、よい質問をしてきたり、
関心のある方は地域に関係なく、出版前からよく情報を得ていらっしゃいました。

---今はインターネット時代ですからね。地理的な情報格差が
なくなってきているのをひしひしと感じますね。

〈上沼〉そういうわけで、地域差より関心の差で情報の受け方が違ってくるということですね。
これからの課題は、どういうふうにN.T.ライトの神学が浸透していくかです。あちこち移動
しながらのセミナーでしたから、その後どうなっていくかと。

 その課題の一つは、彼が提示している聖書理解の全体像、創造から新創造という
大きなパノラマが、牧会現場や信徒の生活でどう活かされていくかです。

 今回は本の内容説明が中心だったのですが、実際、それを信仰生活にどう活かしていくかを、
今後丁寧に提示していくことが必要だと思いました。

 ある地方都市の牧師は、実によく学んでいて、私の知るかぎりですが、
日本でいちばん牧会に生かしているのではと思いました。そこでもセミナーをさせて
いただきましたが、そこの信徒さんが参加していて、よく理解しておられました。
ふだんの説教をとおして浸透しているのだと思います。

 今後は、そうした人のために、サイドに立って助ける役割の人や資料の必要を感じました。


N.T.ライトに学ぶ人と、遠くから警戒する人

---かなり前からN.T.ライトに関心を持ち、外国の神学校で学び、
原書をかなり読みこんで役立てている指導者が何人かいらっしゃいますね。

 伝統的な教団の神学の枠組みを越える魅力があるのは、ライトがこれまでにない、
聖書理解の根本的な見直しを提供しているからなんでしょうね。しかも、全体の見通しを
驚くほどよくしてくれるものがあります。

〈上沼〉ただ、これまでの伝統的理解にいる人が戸惑ったり、
抵抗感を感じたりする反応も出ているみたいです。

---説教に活かしている方がいる一方、警戒的な方もいますね。入門的なネット情報だけで
「ライトは間違っている」「聖書に反している」と反応する人もいます。

 私もまだまだ理解の途上ですが、これまで聞いてきたことと異なる理解や、
そのユニークさにあっけにとられることがあります。疑問や問いが出されるのは、
議論が深まるためにいいことだと思います。


牧会的、宣教的に今後どう受容していくべきか

〈上沼〉私が今回気づいたのですが、知的理解は必要ですが、たんに知識だけで終
わってしまわないかという心配があります。

---そうですか。ただ、学んでいくうちに、新しいアプローチが身についてくれば、
自然と生活につながっていくこともあると思いますが。
 まずは正確に知ることが大切でしょう。ある程度距離をとって、批判的に検討す
ることも必要ですし。

〈上沼〉ええ、それはそのとおりですが、単なる知的楽しみで終わってしまわない
かと。「ああ、彼の神学はこういうことなのか」で止まってしまわないか、という
懸念です。

---知的満足で終わる人、理解しても自分は変わりたくない人、また、変わりたく
ても、どう変わったらよいか分からないという人に分かれてくるでしょうね。

 牧会上の適用で以前からの懸念は、とくに天国理解がありますね。その修正を迫
られるので、死に臨んで、永遠の天国に慰めを得ている人に、どう接したらよいかという。
讃美歌、聖歌、ゴスペルソングの歌詞にも、それは影響しています。
 NOPG上沼対談
 それ以外の懸念を示す人にも、今度出たライトの主著『新約聖書と神の民』上巻(NTPG=The New Testament and The People of God 新教出版)によって、彼の深い学術的理解、信頼性の高い神学の奥行きを知ることができるといいですね。

〈上沼〉そうですね。NTPGは高度な学術書ですから、その理解のために
『クリスチャンであるとは』でN.T.ライトの理解する聖書の全体像をつかんでいると助けになると思います。それを踏み台にNTPGチャレンジするといいでしょう。

『クリスチャンであるとは』を、NTPGを理解するために必要不可欠な文献として読んでいただきたいですね。(続く)
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関西牧会塾 「ナウエンに学ぶキリスト教霊性」(概要)

 2015-11-20
IMG_0804.jpg
 今年から開始した、関西牧会塾。5月、7月、9月、11月と、四回にわたって、ナウエン講座を持ちました。
一回は2日間で、一日二つのトピックを取り上げ、計4つのテーマで受講者と一緒に、ナウエンの世界をたどりました。以下はそのあらすじです。
 ナウエンが大好きな人たちとの出会いは、とても元気づけられました。


第一回「ナウエンの霊的形成とは、神の愛と観想の祈り」(5/18-19)
一日目
(パート1)ー「霊的形成とは」
  奉仕者に求められる霊性
  内への旅と外への旅
  霊的修練の全体像

(パート2)ー「霊的形成と霊的成熟」
  霊的成長での古典的理解
  ナウエンの霊的形成
  成熟した霊的生活とは

二日目
(パート3)ー「祈り、神の愛」
  祈りによって神の愛を受け取る
  神の愛に根ざしたイエスの宣教
 「祈り」という修練

(パート4)ー観想の祈り
  レクティオ・ディヴィナ
  臨在とは(プレゼンス)
  観想の祈りについて

第二回 「『傷ついた癒し人』(1)、もてなし」 (7/13-14)

一日目
(パート1)ー「ナウエンは現代人をどう理解したか」
  脱走兵のエピソード
  「苦悩する世界」
  核時代の人間の苦しみ

(パート2)ー「苦悩する牧師」
  傷ついた癒し人のエピソード
  個人としての孤」
  奉仕職としての孤独

二日目
(パート3)ー「もてなしの基本的理解」
  もてなし(Hospitality)とは
  もてなしはキリスト者の使命
  もてなすということ

(パ−ト4)ー「もてなしを実践するには」
  もてなしと共同体
  子供という客人
  イエスをもてなす、イエスにもてなされる

第三回「『傷ついた癒し人』(2)、喜びと悲しみ」(9/14-15)
一日目
(パート1)ー「現代人へのミニストリー」
  断絶した現代世界でのミニストリー
  解放への小道 
  根なし世代へのミニストリー

(パート2)ー「希望なき人間へのミニストリー」
  個人への配慮
  最も個人的なものは普遍的
  人生の価値と意味への信仰

二日目
(パート3)ー「喜びと悲しみ」
  感謝と喜び
  悲しみを迎え入れる
  イエスの喜び

(パート4)「臨在と不在」
神の臨在と神の不在の間で
聖餐式における神の臨在と不在
神の不在における臨在

第四回「憐れみ、共同体、宣教とは、人生を祝う」(11/16-17)
一日目
(パート1)ー「憐れみ(コンパッション)とは」
  憐れみとは何か
  憐れみへの道
  憐れみという賜物

(パート2)ー「 共同体(コミュニティ)」
  憐れみと共同体
  共同体を育む
  教会というコミュニティ

二日目
(パート3)ー「宣教とは」
  コンパッションから宣教へ
  イエスの宣教スタイル
  共同体としての宣教

(パート4)ー「人生を祝う」
  祝うことへの招き
  祝うことがもつ逆説
  小さなことを祝う
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