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パーソナル、フラットな関係の会社作りとは

 2014-08-22
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 テレビ番組で録画して見ているものに『カンブリア宮殿』というのがある。
 作家の村上龍氏がホストで、いまの不況の時代に大活躍している企業経営者、オーナーをスタジに呼んで対談し、いわば現代の成功物語を紹介していく番組だ。もちろん、すべてを紹介するのは一回で無理だろうし、公表されてない裏話もあるかもしれない。

 私が見てて面白いのは、これまで知らなかった企業のさまざまなあり方、経営哲学を知ることができ、そこから見える現代社会の流れ、変化だ。

 最近の番組で、北海道で大成功をおさめているケーキ屋さんの紹介があった。
 そのとき、村上さんとその社長さんが対話しながら明らかにした、今後の企業のあり方が興味深かった。二人の話し合いに自分の解釈を交えて、以下にまとめてみたい。

 ○高度成長期のような長期雇用の時代ではなくなった。会社側としては、年功序列で提供する賃金体系が崩れてきた。そこで、以前なら当然期待された社員による会社への忠誠心、所属意識が期待できなくなった。

 ○自分に合わない、気に入らない、トラブルになったと思えば簡単に会社を辞めてしまう社員が生まれている。不況の時代、会社も経営危機になったら社員を簡単に解雇する。会社に自分の将来を全面的に託して生涯を過ごすスタイルが薄れている。

 ○そこで、どうやったら社員が、所属している会社へのプライドをもって、喜んで、意欲的に働いてもらうことができるだろうか。能力を発揮してもらえるだろうか?

 ○会社は社長一人で経営、発展できるものではない。構成員みなの積極的な経営参加がこれからは大切になってくる。

 ○それには、会社を皆で作っているという意識、開かれた経営哲学がキーになってくる。社長、リーダーが「俺には考え(ヴィジョン)がある。黙ってついてこい。指示、マニュアルに従って働けばいい」というものでは、これからの会社はもたない。

 ○「作って、売ればそれで終わり」という時代ではない。質のよい商品、よいサービスが求められる。

 ○働いている人の団結力、所属への誇り、プライド(責任感)が、企業の生産性、顧客へのサービスを支える。だから会社経営とは「人作り」(「人は石垣、人は城」武田信玄)だと言える。

 これらの中心にある本質を浮きだたせるキーワードは、「パーソナルでフラット」な関係だと思われる。リーダーや社長がいらないというのでない。リーダーが牽引し、責任をとり、決断していくのは変わらない。しかし、もっと現場の人を生かし、フラットな関係を築きながら参加意欲を増し、そこで一人ひとりのパーソナルな能力が生かされることで社会貢献する。そのことで所属意識と働く喜びが増す。

 ブラック企業の利益優先、過重労働の実態が社会問題になった。これでは社員も会社もつぶれる。
 生み出されるよい商品、よいサービスが生まれるのは、社員一人ひとりが大事にされている(愛されている?)と思えることからくるのだ。

 さて、これを自分に当てはめて考えるとどうなるか? いろいろなヒントがありそうだ。
(もちろん、教会にあてはめて見てもいいだろう。)
 以上、書きなぐりです。
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気に触る日本語

 2014-01-29
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 前からずっとこのテーマに触れて見たかったですが、私がりっぱなオジサンの領域に達してる証拠でしょう。

いやなんですよ。聞いてて落ち着かない表現。

1「じゃないですか〜」
 この表現は、だいぶ衰えてきてホッとしています。「じゃないですか〜」は音程を下げつつ閉じられますが、最後の「あ」が少し伸ばされて、こちらにもたれかかるような感じです。自分の判断の半分はこちらに責任があるように言われても、困ってしまう。
 どちらかと言うと、女性が使うほうが多いと思うのですが、あるとき、業界で知られた権威者である年輩の男性から言て参った。

2「みたいな?」
 言葉の最後に、軽く添えられてプツッて切れる言い方。最後は少し尻上がりになって、話者が受けた印象をこちらに預けられるような感じがして落ち着きません。女子中高生、若い女性に蔓延している模様。
 最後が強く落ちる表現も見られます。
 これも話者の最終判断が保留され、こちらに「分かるでしょう」と同意を求められる感じが、煮え切らない意見を聞かされている、宙ぶらりん感じがいやですね。流行りだから仕方ないのか、耐えるしか道は残されていないかも。

3「(のほう)になります(なっております)」
 店でひんぱんに使われます。テレビで商品説明や紹介、定価を言うときなどに、盛んに使われます。「こちらですと、12000円になります」と。なぜ「です」ではいけないのか? 「なります」って、定価は自分たち会社側で決めたのでしょうが! オジサンとしては大いに不満で、じっと悩んでしまいます。

4「千円からお預かりします」
 これは有名ですね。それなのに、まだ衰えない傾向。小銭入れを店員の前で広げてチェックし、やはり小銭はないと判断し、お札を出したとしても、「千円からでよろしいですか」という言い方をされると、内心、ムカッときます。でも、じっと歯を食いしばって「ええ」と耐えてます。
なんですか? この「から」っていうの? 止めてほしい。マニュアルで言わされているの? 客を見て言ってほしい。

5「という私(自分)がいるんです」
 いろいろ意見を述べたあとに、こいういう言い方を付けます。
 自分で自分を客観視するのはいいけど、なんか、それを「自分」でないかのように遠くから眺めて表現している感じが、なんとも落ち着かない。
 最初、面白いと思ったし、たまに使うのはいいと思いますが、頻発する人がいるのは参る。
「あっつ、そ」と叫んで、後ろに卒倒したくなる。

 まだまだあります。気に障る日本語。
(上の1と2は、言われたらその場で横っ面をひっぱたきたい衝動がありまですが、それをしてはおしまいなので、上品な?私はぐっと我慢。私個人の感覚にすぎませんし)
 自分も使っているかもしれません。
 今のところ思いつく自分にとってのトップ(ワースト)5です。
 皆さんにとってはどうですか?

 がまん、がまん・・修行と思って絶え忍び、巻き込まれないように努力します。




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「言葉」と「イメージ」と「考える力」

 2014-01-16
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 子育ての本で有名な佐々木正美氏のサイトをたまに見ると、よい記事(コラム)にぶつかることが多く、深く考えさせられる。
 人間として成長する上で、人格を形成していく上で、幼いころから子供の心に「言葉」「イメージ」「考える力」を育むように接することの大切さを、ある記事で説いていた。その原点は絵本の読み聞かせにあるという。

 自分の息子が先日、幼児のころからの絵本、物語の読み聞かせ、イラスト付き本、漫画。。と、読書体験が変化してきて(いまもマンガはたくさん読む)、ようやく文字だけによる本に手を出した変化を目にした。そのとき、佐々木氏のコラムから多くのことを気づかされた。以下の引用は抜粋。

佐々木氏コラムーー絵本を読み聞かせる大切さ(リンク)

言葉とイメージと考える力

 言葉は文化そのものです。そして、イメージをもっています。その言葉とイメージによって、私たちは物事を考える力、すなわち生きる力を与えられます。子どもにとって絵本は、その言葉とイメージを、もっとも豊かに育んでくれるものです。
 人間的な基本的な基本要素として、それらがどれだけしっかりと心の奥深くに根付いているものかを、近年の乳幼児心理学や精神医学の研究者たちは明確に解き明かしてきました。

言葉と絵の世界を分かち合う

 私たちは本来、相手と喜びや悲しみを分かち合うことを求めて生きる存在です。ですから、誰か相手に喜びを与えていることが、自分にとっても喜びであるように、自分の悲しみを共有してくれる人に恵まれることを、大きな幸せと感じます。
 こんな時代ですから、幼い子どもを自分の胸の内にしかっリと抱き、言葉と絵の世界を共有し合う一心同体の時間を、もっともっと取り戻したいと思います。
 そして、子どもの目や表情が生き生きと輝いて、胸の鼓動が高鳴ることに、読み手の私たちも感動や喜びを感じたいと思います。
 それは、何より子どもたちに、将来、誰とでも喜びや悲しみを分かち合える人格を育ててやりたいからです。


 子育ての最中なので(ほとんど妻がしているが)子供の心が健全に育ってほしいと願う。大人になってから大切な自分と他者を理解すること、共感、コミュニケーション、人格の基礎はどうやったら築かれるのだろうか。


「読み聞かせ」を知らなかった母親
 昨年の暮、ある小学校の校長先生を訪問した。そのなかで、落ち着きのない問題行動を頻繁に起こす、ある子供の事例を聞いた。その子の母親と面談した先生は、何かを感じたのか、髪を金髪に染めたヤンキー風の若い彼女に、

「どうぞ、読み聞かせをしてあげてください」

と、頼んだそうだ。

 そうしたら彼女から、「自分がされたことがないので、どうしたらいいか分からない。どんな本を読んであげたらいいのですか? 教えてください」という返事が返ってきたという。

 生まれてから、親からの読み聞かせを体験していない子どもがいることに衝撃を受けた。子供は親との感情の交流、一体感に飢えていると、面談した先生は気づいたのだと思う。
「親にその体験がない」「その時間を子どもにとってあげてない」ーそういう親がいる時代になってきたのかもしれない。

 絵本の読み聞かせ(視覚と聴覚と触れ合いの中での物語を聞く)、その後のマンガ、挿絵のたくさんある小学低学年向けの本、やがて文字だけの本。
 本を作る者として、あらためて本の読まれ方、とくに人間関係の中でどう読まれ、感動を分かち合えるか、ということの大切さを、子供の姿から学んだ気がする。


人間にとっての言葉の重要さ
 言葉がなければ、思考、思索ができない。さらに、自分の体験、他者の想いを言葉で捉えることができないと、そのとき何が起きたかという対象を捕まえることも、他者との共有も、記憶に定着させることも、意味を受け止めていくことも、負の体験や心に負った傷から解放されることも、自分の中の大切なストーリーにしていくことも、できないだろう。

 それらの人間としての能力を育むものが、「イメージ」「言葉」、その上での「考える力」。それらを私たちの間でつねに養い、子供に対しては、それを提供し続けることが大人の責務と言えるのではないか。

「言葉」「イメージ」「黙想(思索)」。これは、ヘンリ・ナウエンが展開する霊的成長の世界にもつながってくる。

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一年を振り返って。今年の私にとっての重(十)大ニュース

 2011-12-31
現在、実家にもどって年越しをしている。

今年の自分に関係する重大(十大)ニュースを無理やりまとめてみたい。
自分にとって衝撃、影響を受けたことを並べてみることにする。


1 父の死。日本の宗教的伝統との出会い。

 3月末、突然の父入院、その後の死亡で、私の生活は一変した。大震災の1週間後で心的ダメージが強かったが、呆然とすることで自分を守った。悲しみを味わう間もなく喪主となり、次々と細かな決断の日々。田舎の風習、決まりごとを、親戚、隣組のサポートを得て何とか乗り越えることができた。自分の生まれ出た地域の人々、幼な友達、小中学の恩師たちと再会し、自分のルーツ(切り出された岩)を確認する機会となった。

2 千年に一度の大地震、大津波、帰宅難民

 三陸海岸は大学時代に旅し、昭和初期の津波被害の記憶が頭に入っていた。しかし、まさか自分が生きているうちに起きるとは! 当日は仕事場のビルから飛び出し、都心の道路上で船酔いしているかのような大揺れを体験。高いビルがゆらりと左右に揺れた。帰宅は徒歩で皇居を巡って渋谷まで。そして渋谷で足止め。寒中、途方にくれた。しかし、なんとツィッター経由で、ある牧師さんから助けの手が。主の助けに感謝。
 道玄坂上のナザレン教団神学校で夜中に暖をとることができて力が再生。その後、このことのお礼を述べる機会がなく心残りである。巨大な被害を受けた方々を思うと、いまも心が痛む。国難の時代に入った。

3 原発事故による心の痛み

 地震国、日本での原発の危険性は何十年も前から自覚していたが、現実に起こってみると、いくらかの知識があるためか、最悪の事態を想像し、大きな心的ストレス、恐怖感を抱いた。それを笑う人がいるが、それは原発の秘めた危険性を知らない人である。被害はもっと大きくなったはずだ。この程度におさまったのは、二つの偶然が重なって、膨大な量の核燃料の暴走を防いだことによると言われている。神の憐れみを思う。

4 生活の複雑化。外部奉仕が始まる

 カトリック信徒主催による「鎌倉黙想の家」でのリトリート指導。秋からの牧会塾の奉仕でナウエン講座の開始。さらに自費出版の制作を引き受ける作業が生じ、生活が多様化、複雑化してきた。それまでは自社の仕事、すなわち机の前での孤独な作業ですんでいた生活が一変し、人を前にした仕事が加わった。それは大きなチャレンジだった。自分の立ち位置を見失うこともあったが、生活の幅を広げるよい機会になった。そこでの読者との出会いは、ほかに変えられない喜びがある。以下の「8 ネット環境の複雑化」も原因だが、ブログ書きも影響を受け、頻度が減ることになった。外部奉仕は来年も続く。

6 出版活動

 ナウエン著『主の憐れみを叫び求めて』

 タウンゼント&クラウド著『聖書に学ぶ子育てコーチング』

 米村英二著『健やかな人生の土台を築く』(大津キリスト教会発行 自費出版)

 いずれも好評を得ている。とくに『子育てコーチング』は、これまでの出版傾向と違うと思われる人がいるかもしれないが、そうではない。人が親となる責任、子供の人格形成、人間関係のあり方を問うもので、それらは霊的形成の土台となる。

7 後藤敏夫牧師を送る。

 あめんどうの創設者の一人、また、よきアドバイザーであった後藤先生が、これまで奉仕してこられた教会を辞し、北海道の共同体にご家族で移住。新たな生活を開始なさった。ナウエンを日本に知らしめた『イエスの御名で』の名訳で日本の教会に貢献。当社の方向性を決めた作品となった。もう一人の創設協力者で、親友である御立氏と三人で、先生を送る、ささやかな食事会を渋谷でもった。住居は遠くなるが、インターネット時代である。これからもよきアドバイスをいただけたらと願っている。

8 ネット環境の複雑化と読書環境の変化

 いまやメールとサイト閲覧だけで終わらない多様化の時代にある。ネット環境はiPhone、スマートフォンで携帯可能となり、そこにFacebook、Twitterという強力な手段が加わった。その楽しさ、予想外の展開力は面白く、さまざまな壁を簡単に乗り越える個対個、個対多の伝達手段となった。大震災、原発事故ではとくにその能力が発揮され、マスメディアをしのぐ威力を発揮。そのことでマスメディアによる情報操作の可能性を浮き彫りにする副効果もあったように思う。世界ではエジプトなど、政変さえ起こすことが可能な情報共有のツールとなった。
 一方、私だけではないだろうが読書量の減退、ネットに費やす時間の増大を招く結果となるという弊害もある。適切な距離のとり方を学ぶ必要を感じる。また同時に、近い将来の電子書籍の隆盛、読書環境の激変を予感させるものがある。

9 神学者バーナード・ロナーガンを学ぶ

 ナウエンが初期の書物に引用していることから興味をもった神学者だが、ネットで検索したら、上智大学で社会人のための夜間講座があることを発見。ロナーガンの主著『Insight』の研究家、大学教授による講座を昨年後半から今年にかけて受講した。世界が彼を理解するにはこれから百年かかると言われる、重要かつ難解な思想だ。講座も簡単に理解できる内容でなく、さわりだけだったが、人間の認識から霊的世界をつなげる思想の世界に触れた。大きな刺激を受けたので、これからも手に入れた資料をもとに、少しずつ独学してみたい。挫折する公算が大きいが。

10 スポーツがもたらす喜び

 私にとってスポーツとはサッカーのことだが、今年の日本女子代表「なでしこ」によるワールドカップ優勝は、もう二度と起きないだろうと思われる快挙で、大きな喜びと励ましを日本にもたらした。あの体の小さな日本女性が世界の大きな女子と戦って勝ったことは、胸のすく思いだった。ありがとう。私個人もすごい励まされた。
 私も、小学生のサッカーチームの付き添いをできる範囲で始めた。一年一年、目に見えて成長していくだろう少年たちの姿に、神が作られた人間の姿の原点、可能性の大きさを楽しませてもらいたい。しかし、大人の私たちこそが彼らを信頼し、彼らが自ら育っていく環境を整えることを学ぶ必要がある。それは簡単ではない。


 来年も主にあってて期待し、希望して家族と仲間と共に、与えられた使命を生きようと思います。


 今年も大変お世話になりました。皆様も良いお年をお迎えください。





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「ボードマンさんを偲ぶ会」について

 2010-12-13
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ロバート・ボードマン宣教師夫妻を偲ぶ会

 しばらくぶりでブログを書きます。これまでツイッターまかせでしたが、ぼつぼつ再開です。
(このFC2ブログサービスはまだ慣れていなく、徐々に学んでいきますので、ご寛容のほどを)

私がお世話になっている国際ナビゲーターという宣教団の日本の創設者、ロバード・ボードマンさんが、昨年9月、米国にて神の元に帰られました。また奥さんのジーンさんが今年、それを追うかのように天に召されました。

 そこで日本の関係者が、お二人との交流を共に偲び、私たちへの貢献に感謝し、10月初めに東京で記念会を持ちした。

 彼は、戦後すぐの日本にやって来て、貧しい時代から現在への日本の変化を肌で知っている方です。多くの日本人スタッフを育てました。背が高くがっちりとして、ハンサム。落ち着いていますが、ユーモアに満ちた方でした。

 同世代の宣教師は、ほとんど先の大戦に兵士として参加しています。いまや大きな出版社である事業を創設したマクビティ氏、名前をよく知られた宣教師ダビデ・マーチン氏、学生寮を創設したチャールズ・コーウィン氏などと同世代で、彼らは親しい知り合いだったと思われます。

 ボードマンさんは、世界大戦に海兵隊として参加し、南方の戦地から北上しつつ、ついには沖縄戦で戦いました。友人が目の前で日本兵に殺され、自分ものどを打ち抜かれ、生死の境をさまよいました。声帯が破壊されたために、彼の声はずっとだみ声でした。一方、奥さんのジーンさんは、かつてビリー・グラハム家の家庭教師をしていたそうです。

 私はボードマンさんがサポートした日本人スタッフによって育てられたのですが、何度かお会いして、メッセージを聞いたり、個人的な励ましをいただいたりしました。

いくつかのエピソード
 かつて貧しい学生だったAさんの思い出話し。60年代。都内のある学生集会での帰り、ボードマンさん(B)と一著に電車に乗って帰宅しようとしたときのことです。

B:「さっき買った切符を見せてください。ちょっと変でないですか」
A:「あー、これはキセルといって、学生は誰でもしているんですよ」(キセル:降りるときに定期を利用し、乗車するとき、一駅分しか切符を買わない不正行為)
B:「聖書にあるでしょう。『小事に不忠実な者は大事にも不忠実である』と」
 そして彼は、その切符と取り上げ、目の前で破いて捨てました。そして、
B:「これで切符を買い直してくだささい」と、全額出してくれたそうです。

 この体験を話した人は、現在は会社社長。今でもその身にしみた教えが、経営姿勢に影響を与えているそうです。


 別な話。昔、クリスチャン学生とスキーにいったとき、彼が小さなグループで食前の祈りをしました。

 B:「私はいまこの食堂で働いているある女性に良くない思いを抱きました。お赦しください」

 当時、学生だったCさんはそれを聞いて、その率直な態度に衝撃を受け、それ以降、心のきよさについて強い影響を受けたそうです。Cさんは今、牧師をしています。

th_th_th_IMG_0787.jpg 日本での活動を記した著作(絶版)

 ボードマンさんからよく聞いた言葉
「良い意図で始める人は多いが、最後までまっとうする人はまれです」

 あらゆる良い行い、生き方も、最初はいいが、最後までそれを貫いて終える人は少ない、という意味です。彼のオリジナルでない、知られた警句でしょうが。自分自身に語りかけてきたのだと思います。
 同僚の宣教師の中には、日本で問題を起こし、恥と失意のうちに責任をはずされ、帰国した人が何人かいました。

 ボードマンさんは、人間は過ちを犯しやすいものであることを知っていて、自分に言い聞かせたでしょう。そして、彼は最後まで神の前での誠実な生き方を貫くことを自らに課し続けたのでした。

 その生き方をとおし、誠実で、隠すことない率直な言動をとおし、私たちは強い影響を受けました。
 良き模範を示し続けてくれた真のリーダーでした。

 ほかにもこう言っていました。
 「私は、神が私を日本に遣わすなど、まったく思ってもいなかった。イエスの言葉の『あらゆる国の人々を私の弟子としなさい』という中に、日本が含まれているとは思っていなかった!」

 もちろん、ユーモアで言ったのです。しかし、決して日本人に打ち明けることなかった葛藤が、彼の内にあっただろうと思います。

 そして、こうも言いました。「人生を通じて親友と呼べる人は少ないが、その上位に日本人が何人も含まれている」

 その生き方、人格で、イエスに従う忠実な弟子の姿を示してくださったボードマンさん。
 ほんとうに、ありがとうございました。

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