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よりバランスのとれた福音理解とは(改訂版)

 2008-12-22
 大変興味深いブログを読みました。「キリスト教世界観ネットワーク」の最新記事で、進藤恵美子牧師が、これまでの信仰生活を振り返り、よりバランスのとれたあり方を求めて、これからは包括的な福音理解に立った歩みをしたいと述べています。「素晴らしい世界」
 私は「霊の戦い」となじみはありませんが、読んでいて、本当にそうだな~と思いました。

 最後に引用されている、ルイ・アームストロング作曲の「What a Wonderful World」の歌詞の全容を、ここで始めて知りました。人生肯定の希望が素晴らしいです。

進藤師の文は長いので、私なりの要約を下に記します。( )内は私の解釈。

(1)不思議といやし、霊の戦いの・・の運動に加わった。それは大きな恵み、解放、癒し、喜びを体験する機会になった。

(2)しかし、祈り、霊的戦い、救霊活動・・だけが価値あるものとなり、日常生活、介護、育児の価値などが相対的に低められた。隣人への愛や地上で果たすべき使命との結びつきも見失うようになった。

(3)「キリスト教世界観ネットワーク」のサイトを通じて、キリスト教信仰と思い込んでいたものが、実は異文化(二元論的世界観)が混入していたに過ぎなかったのではと思うようになった。
 
(4)生活の現場に神様から委ねられた働きがあることを認識し始め、主が創造されたこの世界の美しさを再発見するようになった(一元論的世界観)。聖書は、神の創造の目的は揺るぐことがないと一貫して語り続けていて、希望と生き甲斐を与えてくれる。

 以下、本文より一部引用させていただきますが、興味のある方は、リンク先で全文をお読みくださいますよう。(以下、改行、一行空きはクレオパ追加)

「滅んでしまう地上でのクリスチャンの使命は、滅び行く魂に対する宣教である。祈りと悔い改め、礼拝と霊的戦い、そしてそれらの事柄に携わることだけに価値がある」

 この価値観で測られると、介護や子育てに追われる日々を過ごしている人たち(私も経験したことですが)、時間的にも体力的にも余裕のない人たち、環境や状況のハンデ、経済的・知的ハンデがある人たちは、同じクリスチャンであっても、部外者であるかのような疎外感を感じてしまいます。

 教会からの援助と励ましをより必要としている人たちなのに! しかも「この世界はサタンの支配下にあるから・・」とサタンの働きをあまりにも過敏に意識して霊の戦いに明け暮れていたために、与えられている家族や人との繋がり、日常生活で現すべき隣人への愛や地上で果たすべき使命さえも後回しになってしまう危険を感じるようになりました。

 しかし結局、霊の戦いと、魂の刈り取り以外には価値を見出せないような世界にいたため、次第に、心身ともに疲れを覚えるようになり、家庭生活にも歪みが出てきました。(「素晴らしい世界」
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C.S.ルイスの悪についての理解

 2006-03-22
 善悪二元論の記事にたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。そこで、もう少し関連記事を書くことにいたします。コメントは、こちらにどうぞ。(何も書き込みがなかったりして・・。)

何のための論考か
 こうした論考を始めた目的は、以下のことに集約できるでしょう。イエスの究極的な教えである黄金律に応えるためです。

 神を愛する(神理解の二元論を越えて)
 自分を愛する(霊肉二元論を越えて)
 隣人を愛する(善悪二元論を越えて)

 中村妙子訳『悪魔の手紙』(C.S.ルイス 平凡社ライブラリー 本年2月発行)が出ました。その中にある山形和美氏の解説を参考に、ルイスの悪魔論を私なりにリストしてみます。

ルイスの悪魔についての理解
・神と対等で、独立して存在する悪魔は存在しない。
・いかなる存在も、神の「完全な善」に匹敵する「完全な悪」に成ることはできない。
・人間に備わったあらゆる種類の善きもの(知性、意志、存在、記憶・・・)
 がなければ、悪魔の存在もない。
・悪魔と天使の存在を(ルイスは)信じている。
・いくらかの天使が、自由意志の乱用により、神の敵になり、私たちの敵になった。
 これらを悪魔と呼んでもよい。悪天使は堕落した善天使である。
・悪魔は天使に対立するのであって、神と対立しているのではない。悪魔たちの親分
 であるサタンは、神の敵ではなく、大天使ミカエルの敵対者である。

 私も皆さんも、かなり同じように理解しているのではないでしょうか。でも、いつの間にかあやふやに・・。一元論という大きな枠組みの世界の中に存在する二元論的対立ということなんでしょうか。一筋縄ではいきませんね・・・。

現代の最大の悪とは
 現代の地獄、最大の悪とは、一般に人々が考える、犯罪者がたむろしている場所(誰の目にも悪と分かる)にはない、とルイスは言います。そうではなく「役人(官僚)の世界」にあると言います。

 最大の悪は、「清潔で、絨毯敷きで、暖房と照明のいきとどいた省庁、白いカラーをつけ、爪をきれいにし、ひげを剃った頬の、大声で命じる必要のない静かな男たちによって、画策され、命令されている」というのです。

 その代表的なものに、警察国家の官僚制度
              下劣な営業本意の会社

をあげています。鋭いですねー。よく考えるとぞっとします。しかも舞台裏に隠れる人たちです。警察国家は世界にたくさんありますが、役人の世界はどこもあります。

 敵は天使に変装することもあるので、簡単に分からないですが、いずれにせよ警戒すべきは人間というより、その背後にいる霊的存在や価値観ですよね。

祈り:主よ。ルイスの卓抜な洞察に感謝します。悪魔はだますのが得意です。私たちがだまされないようにしてください。
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キリスト教への二元論の混入─その4

 2006-03-15
このテーマは今回で最終回。今回も長くなってすみません。本当はもっと短く書きたいです。

(4)善と悪の二元論(世界/宇宙論)
 一元論、二元論という言葉ですが、慣れていない人はやっかいな用語ですね。キリスト者は、唯一の絶対者、創造の神が世界のすべてを創造したがゆえに、存在するすべての物が唯一の神(三位一体の神)から生じたというのが基本的理解です。ですから、一元論になりますよね。
 ところがうっかりしていると、そこに二元論的な思考やイデオロギーが入ってきてしまうことがあるのです。非聖書的な思想が混入し、とんでもない判断をしてしまう恐れがあります。

悪はどこから生じたのか
 この世界を造った神は善であるのに、「なぜこの世に悪が存在するのか」という問いが生じてきます。これはアウグスティヌスはもとより、多くの哲学者、神学者、人類が追求してきた問いです。さらには、「救われたはずのキリスト者の中に、なぜ悪(人格、出来事において)が存在するのか」という問いも関係してきます。

 聖書の世界は、善であったものが堕落した結果、悪が生じたと教えています。悪は、善と対等にあるのでなく、悪は善より下位のものとして存在するというわけです。悪が悪であるという理解できるは、その前提として善を認めているからです。このへんは、C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』でたくみに論じていますね。

 ルイスは、一元論的世界観に立っているのですが、『ナルニア国物語』では、二元論的な世界観をもつ、ギリシャ神話に出てくる空飛ぶ馬、下半身が動物、魔女の存在など、異教的なシンボルを使っているので、「あれれ?」と思います。「ファンタジーだから、まあいいか」ということでしょうか。ルイスの立っているらしい、ネオ・プラトン主義がなせる業でしょうか。(この主義は二元論なのに、ルイスは一元論??? あれれー? → 専門書にあたってください)

二元論的な善悪の理解
 二元論の代表が、世界の初めから善と悪の両者が対等に存在し、果てることない戦闘を永遠に続けているという世界観です。この壮大な宇宙が、善と悪(悪魔、悪霊)との目に見えない永遠の闘いの場である、というわけです。それはギリシャ思想、さらに古くはゾロアスター教の元になっているグノーシス思想に源流があると知られています。

 世界を単純に善と悪にくっきり分ける仕方ですが、ハリウッド映画のアクションものなどが典型ですよね。子どもむけの物語、おとぎ話、マンガのかなりがそうです。それは第一に、分かりやすい。あまり悩まないていられます。「悪人が滅びて、善人が栄える」というのは快感でもあり、ドラマチックです。(映画「ナルニア国物語」は、ちゃんと一元論的に善悪が描かれているのでしょうか。私はまだ見ていません)

 それを政治的に適用すると、「自分たちは神に選ばれた国、しかし、他のある国は悪の帝国」と断じるようなことになってきます。異教徒はすべて嫌悪すべきだという見方も、正統的だと誇っている人たちが陥りがちな点です。
 ここで、「神はこの世を愛された」(ヨハネ3:16)という言葉が大事になってきます。イエスの「よきサマリア人」に出てくるサマリア人は、当時の正統派から嫌われた異教徒だったことを忘れてはならないでしょう。悪は相手の側にも、こちらの側にもあるのです。

いわゆる「霊の戦い」は?
 近年、キリスト教界の一部で、「霊的戦い」ということが強調されるようになっています。おもに宣教論から出ています。このとき、霊的な戦いを、悪魔や悪霊との決着のつかない、果てしない戦いとして二元論的にとらえてしまうと、「聖書の世界というより、グノーシス的な世界観に近い」と聞いたことがあります。きちんと聖書に従っているなら、そういうことはないのでしょうが。

 この世では、目に見える世界と、目に見えぬ世界での悪との戦いがいまだにあるのが現実ですが、イエスはすでに悪と戦い、勝利をおさめた方として燦然と輝いている、というのが福音のもたらした世界です。ですから、あまり怖がることはないでしょう。しかし、甘く見ることもできません。

 C.S.ルイスが言ってますが、「悪魔を無視してもいけないが、気にしすぎるのもよくない」というような理解が、バランスがとれていいのではないでしょうか。

補 記
 ところで以前、「東方正教会は一元論の神学を保っている」と書きましたが、肉体を苦しめ苦行を積むことが、より霊的だという霊肉二元論は、東方教会の一部に浸透したこともあるようです。それはギリシャ思想から影響を受けたようです。古代ユダヤ教も、旧約と新約の間の中間時代に、二元論の影響をかなり受けたのだとか・・。私たちが二元論的思想から完全に逃れることは、そう簡単ではなさそうです。
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キリスト教への二元論の混入─その3

 2006-03-07
(3)肉体と霊という考え方に混じる二元論(人間論)
 ヨーロッパの中世のキリスト教文書などによく見られる禁欲生活があります。この世での世俗的な生活から逃避することが、より神に近く、霊的であるという理解があったようです。
 トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』は、現在でもよく読まれてるいますが、神を一途に求める素晴らしい内容であるものの、中世の禁欲的な修道生活を反映して、二元論的な価値観が強く出ているように思います。どう思われますか。

肉(体)の軽視
 新約聖書のパウロの手紙の中に、霊と肉の思いの戦いについて書いてあります。それを二元論的にとらえると、肉的なものを敵視したり、嫌悪したりするようになり、禁欲が推奨されるようになってきます。すると、霊的な生活をおくるためには、肉欲、情念、無意識などの存在を認めないか、抑圧するか、隠してしまうという霊性に傾いてしまうでしょう。また、身体、精神と魂を別々のものとして考えるようになってしまいます。

 人間のもつ霊的なものと肉的なものを別々なものとすると、精神性、知性、理性、霊的存在のみを重視することになり、肉体は一時的な住まいにすぎず、やがて滅ぶのであるから、霊の救いのみに価値を認めるという傾向になります。やがて死を迎えて天国に行き、肉体から解放されることが最高善となるわけです。

 こうした傾きは、私たちの日々の平凡な日常生活は低次元であり、価値がなく、時間の無駄という思いを生みます。フルタイムの教職者を目指すことが霊的で、この世の職業につくことは二流だと考え、この世での生活をあまり重視しなくなります。また芸術活動も、直接、霊的なことに言及したり、明示しないものであると、この世的で、価値が薄いものと考える傾向を生むようになります。

正しく用いることによる祝福
 パウロが霊と肉の葛藤ということで教えているのは、霊的な思いに支配されることと、肉の思いに支配されることの対比を述べ、肉の思いをコントロールしなさいと言っているにすぎません。神が創造した身体は、本来良いものであり、正しく用いるときに祝福され、大いに楽しむべきものとして与えられています。

 エバが罪を犯したのは、禁断の実が目にうるわしく、おいしそうに感じたからということで、人間のもつ五感のもたらす感覚を軽視/抑圧する人も出てきます。しかし、肉体そのものや感覚そのものは悪ではありません。どのような思いで、それらを正しく用いるかが大切になってきます。五感は神の造られたものであり、美しいものを見、聴き、味わい、触れたり、香りを楽しんだりすることは、神の創造したものの素晴らしさを讃え、神を存在を認める手段となります。

イエスは霊と肉の統合した生活をされた
 イエスは、福音を宣べ、悪霊を追い出し、病人を癒しましたが、地上に住み、食べ、飲み、寝たり、起きたり、歩いたり、怒ったり、悲しんだり、涙を流したりなさいました。罪人と会食したり、結婚式のパーティにも出席しました。
 人間が直面するあらゆる誘惑にもあいましたので、人間の弱さをすべてご存知です。当時の聖なる場所や行事には、たまにしか参加しませんでした。むしろ、ご自分の弟子たちや、地位ある人から嫌われた罪人と日常生活を共にしました。

 すなわち神は、いわゆる霊的な、狭い意味での宗教的体験のみに目を向けているのでなく、生活全体を大切に思われています。私たちに与えられた個性や肉体的な機能を正しく発揮し、実践する人間的な行為や営みを祝福してくださっています。
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キリスト教への二元論の混入─参考資料

 2006-03-04
 ここ何回か、二元論のキリスト教思想への混入について文にまとめていますが、参考文献を記さないできました。堅苦しくなりそうなのでしませんでしたが、記した内容はわたしの独創ではなく、それらから学んだことを自分なりにまとめたものにすぎないので、ここで紹介したいと思います。

○島先克臣著 『神国論に見る新プラトン主義的霊性』
     『終末の今を生きる』『内村鑑三の終末論』(著者発行のプリント)

 「キリスト教世界観ネットワーク」というサイトで、聖書に立つ世界観を紹介してあり、そこから申し込むと上記の資料を送ってもらえます。この資料のおかげで、私の中の世界観についての関心がまた芽生えました。著者の島先氏は、キリスト教世界観を紹介している先駆的な方です。とくに内村鑑三について扱った小論は感動的です。

○後藤敏夫著 『終末を生きる神の民』(いのちのことば社 絶版)
 現代の代表的な終末論と、その歴史観や世界観がもたらす影響について、図表付きで簡潔にまとめてあるブックレットです。現在、手に入りません。

○スティーブ・ターナー著『イマジン』(本間かおり訳/いのちのことば社)
 音楽や文学を中心に、キリスト者の芸術活動の意義とキリスト教界内の無理解、今後のあり方について触れてあり、たいへん面白い内容です。昨年秋に発行されたばかりで、手に入りやすいです。クリスチャン・ミュージックとは何かについて、他では見当たらないテーマを扱っています。

○ポール・マーシャル著『わが故郷、天にあらず』(島先克臣訳/いのちのことば社)
 本書の内容については、ことば社のサイトにある書評が参考になります。

○I・ツィンク著『いばらに薔薇が咲き満ちる』(宍戸達訳/新教出版社)
 ドイツで有名な牧師。キリスト教神秘主義の紹介の本。同意しかねる箇所もありますが、この分厚い書の中の「神についての考察」の章で、二元論的な神概念のもたらす影響について書いています。

○H・スナイダー著『神の国を生きよ』(後藤敏夫・小渕春夫訳/あめんどう/絶版)
  神の国とは何かについてまとめてあり、キリスト者のこの世での責任についてコンパクトにまとめてあります。聖書が示す世界について、天国についての理解、キリスト者のこの世界へのかかわりについて書いてあります。

 関心のある方は、手に入りやすいものから読んでみてはいかがでしょうか。いろいろとよい本が紹介されてますので、楽しみですね。
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