マンガ賀川豊彦『死線を越えて』

 2009-11-30
 教会の牧師からある本を紹介されました。今月初めの発行。

劇画『死線を超えて』--賀川豊彦がめざした愛と協同の社会(発行:家の光協会 1,143+税)

賀川の働きを概観
これはとってもいいです! マンガですから容易に読めてしまいます。賀川が、社会運動、労働運動、社会福祉で、いかに大きな貢献をしたかを、彼の人生を追ってたどることができます。
 中学生、高校生などにもぴったり。私もやっと彼の働きの概要を知ることができました。図書館に行って膨大な資料(全集)を読まなくても、この本でかなり理解できると思われます。

 国家が近代化を進めていくなかで、農業、漁業などの一次産業で大半を占めていた国民のなかから、大量の工場労働者、肉体労働者が生まれます。彼らはなんの生活保障もないために、病気になったり、工場でけがしたり、景気が変化したりすると、簡単に職を失うことが多かったようです。農村での貧困、とくに小作人の生活も底辺をあえいていました。

 都会や工場の労働力として懸命に働いた人々は、荷重な肉体労働ゆえのストレスから、飲酒、暴力、ギャンブルへ流れることがめずらしくなかったようです。そして、まますます貧しくなる悪循環。いちばんのしわ寄せは子供たち(現代でも同じ)。賀川はこれを元から正そうと奮闘します。

 彼のキリスト者としての献身的な姿勢、牧師としてのあり方、生き方は、さまざま迫害、力への誘惑があっても一貫していて不変。本当に圧倒されます。

神の国の福音に従った生き方
 彼の根底にある教会論として本書が紹介していたのは、次のようなもの。

「教会は、形より内実、本質が大切で、伝道者は教会の中で本を読み、内部の人に語るだけではなく、社会の中に出ていって貧困、飢餓、病気、差別など、苦しんでいる人々と共に歩むべきである」

「教会とは、ただ信者を増やし、立派な建物を建てることだけではなく、日本の社会を新しくするために呼び出された者の団体である」

 誰でも参加できるか別にしても、まさに「神の国運動」ですね。

 71歳で天に召されましたが、その直前の祈りはこうだったそうです。

 神よ
 教会を強めてください
 日本に救いを
 世界に平和を
 来らせてください。 アーメン。

一貫した平和主義、非暴力思想に貫かれた祈りだと思います。
彼の生涯に興味がある方は、ぜひ手にお取りください。感動的です。
私は10冊くらい購入して、友人、若者にあげたいくらい。
タグ :

賀川豊彦の手記(レプリカ)を入手

 2009-10-28
 少し前のこのブログに、賀川豊彦のことをシリーズで書きました。

 その後、ある機会にカンバーラント教会の生島牧師夫妻とお話する機会がありました。そしたらなんとお二人は生前の賀川に遭ったことがある、というのです。

 生島牧師が10代のころ、賀川が九州に講演で来た際、聴衆として講演を聴き、その後、計3回ほど、姿を拝見することができたそうです。
 
 そして、現在は引退なさっていますが、長い間奉仕なさった高座教会の広い敷地が与えられたのは、賀川豊彦の貢献が大きかったのだとか。驚きました。

 なぜ、その話になったかというと、四方山話で、「アメリカはオバマ大統領の提唱で、社会保険制度を整えたいようですが、日本は賀川先生の貢献もあったか、早くから整っていますね」との、話題になったのです。

 そこで私が、「彼のことは、ここのところ学んでいるところで関心があります」と応じて、しばらく彼をめぐる会話をしました。もっぱら、私が質問責めをしたのですが。

 そしたら、そこからだいぶたった昨日、その会話を聞いていたか、あとから聞いたかは定かでないですが、友人Yさんが、私にあるものを差し出し、こう言うではありませんか。

 「クレオパさん、賀川豊彦のことを話してらしたでしょう。私の本棚にこれがあったので差し上げます」

とびっくりするようなプレゼントをいただきました。それが、ここで写真で示したノートのレプリカです! 私は大喜びでいただきました。

 そしてなぜこのレプリカ(写真でコピーして製本)が作られたのだろうと、パラパラめくっていたら、中ほどに超有名な『涙の二等分』のオリジナル草稿があるではありませんか! 

 「なるほど、それて作られたのか・・・」と納得。

 生島先生は、「講壇では大きな紙に、毛筆で字を書きながらお話なさっていたのが印象的でした」ということでした。

 このレプリカにもほとんど毛筆で書いています。ところどころ鉛筆と思われる書き込みもあります。余白をたっぷりとって、今どきの人気の「ノート術」の秘訣と共通するところがあります。

 詩作、説教のアウトライン、イラスト、英語での書き込み・・・この肉筆ノートから、何を感じ取れるか、大切に、じっくりこのノートとおつきあいしたいと思います。

 Yさん、思いがけない贈り物、ありがとうございます。
 これもブログが導いた出会いですね!
タグ :

賀川豊彦は戦後なぜ忘れられたのか+プラス

 2009-09-08
 今回の連載を通して、気づいたことは、なぜ賀川はこれほどまで大衆の信頼と人気を得ることができたのか、という疑問です。いろんな理由がありましょうが、一つは人々の心をとらえた彼の明確なメッセージではないでしょうか。

 そういう意味で、これまで知らなかった賀川の「言葉」に、この雑誌を通して出会いました。彼は一流のアジテーターであったのです。

 ここで、リズム感にあふれ、聖書の知識も取り入れながら、人々を勇気づけたと思われる彼の言葉に耳を傾けてみましょう。(最小限の引用と思ったのですが、あまりの名文で、感動的なので、以下のような量の紹介になりました)

神の国と終末論に関係して
「『一歩前へ!』 私は歴史の旋律に堪え切れない! 前列一歩前へ!  私は基督伝論争史の縦隊列より一歩前へ前進する」(全集第1巻 進歩的終末論を提唱して)

「絶望するな、神は我々が絶望する時に、希望を備え給ふ。聖霊は日本国土を蔽ふてゐる。我々の要求するのは実行である。物を云わぬ代わりに、善きサマリヤ人の親切である。従って、これからの神の国運動は、農村に、役場に、街に、工場に、我々が無言の十字架を背負って帰って行くことである。我々はこの愛の運動にもう一度帰らねばならぬ」(『雲の柱』 神の国運動信徒大会での講演 1929年12月号)

下層農業の解放に関係して
「農は国の宝であり、農民は国の宝である。日本は未だ農業国である。国民の七割は未だ田園に居住し、またその七割は小作人である。然るに積年の弊風は田園に満ち、土地兼併の悪風暫く現れ田園も資本主義の侵略するところとなり、小作人は苦しみ、日雇人は嘆く。茲(ここ)に我等農民は互助と友愛の精神を以て解放の途上に立つ。(略)我等は急いではならぬ。春蒔く種は、秋まで待たねばならぬ。苦難を知らざるものは成功を知らざるものである。日本の農民よ団結せよ! 然して田園に、山林に、天与の自由を呼吸せよ。我らは公儀の支配する世界を創造せんが為めに、ここに犠牲と熱愛を捧げて窮乏せる農民の解放を期す」(農民組合運動 大会宣言)

『労働者崇拝論』(この崇拝とは信仰の対象でなく、彼のレトリック)
「労働者無くして、地球は回らない。それでも金持ちは征服者のような顔をして、この貧民労働者の娘を金で買うて行く。娘が金で買えるから親も金で買えるかの如く工場で圧制する。彼と労働者の連鎖はただ壱円たらずの日給のみである。・・・馬鹿者よ我等の首は壱円で、工場主の前に垂れるものではないのだ。我等は工場主に雇われて居るのではないのだ。日本の国を富さんがために、労働は神聖なるが故に、彼の仕事を手伝って居るのだ。(略)金持ちこそ労働者に御礼云う可きである」

「労働者は無学だから駄目だと云う。然し、考えて見よ、大砲を製造する科学と、殖民地を盗む学問と、資本家のお玩具の哲学や、美学や、芸術を知って居て、何の役に立つか? 又人殺しを教える生物学や、生存競争を教える経済学を研究して何になる? 私は私の無学を誇る! 凡て無用なる過去の科学に火をつけよ。法律学、政治学の名によって、人を裁判し、人を罪に陥れ、人の罪を救うことを忘れ、愛すべき代わりに憎むことを教える凡ての科学ーー嗚呼それが何になるか?」

「労働者を崇拝せよ。彼は地球から生えた第一の霊だ。我等はもう過去の英雄に飽いた。彼らの多くは掠奪者ではないか、野獣の子ではないか? 今日迄の歴史は皆その掠奪者の歴史である。然し今、真の生産者が世界を支配せんとして居る。之からの歴史が真の歴史である。
 労働者を崇拝せよ。彼は蒔き、彼は刈る。彼は創造主の如く一日として休むこと無く、人間の為にパンを作る。彼は織り、彼は建てる、凡て人間が生きて居れるのは、労働者のお陰である」(『労働者崇拝論』1919年発行、直ちに発売禁止)

社会連帯責任について「金儲け主義批判」
「昔は、日本でも町人を賤しめた。また実際、『金儲け』主義即ち金盗み主義の町人こそ卑しむ可きものなのである。然しだんだん西洋流の良心麻酔学(近世経済学)が輸入せられて、町人も、百姓も、工業家も皆、『金儲け金儲け』と云い出した。神聖な労働者までが『金儲け』主義を唱えて、僅少な労力で最大の賃金を貧らんと企てる様になった。そして、地球は全く腐ってしまった、で、もし今日の階級争闘と云うものを根本から除き去ろうと思えば、この『金儲け』主義の経済学を取り去ることが第一肝心である。(略) ただ労働時間の減少と賃金の値上げだけを要求して、労働の根本義に触れず、労働者専制の時代を夢想するならば、労働運動の根本には全く徹底して居らぬと云わねばない」(『労働者新聞』1919年)


 聞いている者、読んでいる者の心が熱くなるメッセージ、いま読んでも肌があわ立ってくるような、本質を突いた言葉に、ぞくぞくしました。これをどんな口調で述べたのでしょうか。録音が残っていたら素晴らしいですが。


日本の貧困という背景
 もう一つ、唖然としたのは、つい数十年前の日本の現実として大変な貧困、人権侵害があったことです。私の親の世代(貧しさも富も経験)以降、日本は急激に経済大国になりましたが、それ以前(戦前、戦後)は、物質的、経済的にとても窮乏しており、多くの人がその弊害に苦しんでいたことです。
 そこに賀川が活躍した舞台がありました。

  大都市の貧民街(スラム)、下層階級(重労働者)の存在、下層農民(ある時は国民の七割が農民、そのうちの七割が小作人)の存在、暴力、恐喝、奪略、犯罪、アルコール中毒、堕胎、差別、貧困、栄養失調、飢餓、病気、伝染病、賭博(ギャンブル)、財閥の専制、圧政、刃傷沙汰、売春、買春、貰い子殺し(他人の赤ん坊を頼まれて殺すこと)、飢餓、女性差別。。。。

 これらをふまえた日本の近世の歴史理解が重要であることを思い知りました。
タグ :

賀川豊彦は戦後なぜ忘れられたのか(4)

 2009-09-07

 賀川豊彦について学んできましたが、今回でシリーズの最後になるかもしれません。

賀川の国民的影響力---戦後、首相になっていたかもしれない
 季刊雑誌『at』にある倉橋正直氏(元愛知県立大学教授)の記事が、この点に触れています。このことは、私もかつて耳にしたことはありましたが、ほんとだったのですね。

 戦後アメリカは、左翼以外のリーダーで誰を国のトップにしたらよいか探していたそうです。韓国では李承晩が有名ですが、これはアメリカが大統領の地位に据えたらしいです。そいう意味で、賀川豊彦は、左翼でもなく、国民的人気もあり、アメリカでも知られていてよいことづくめ。しかし、そうはならなかった。

 その原因は、1940年8月、反戦を訴えたという疑義で憲兵隊の取り調べを受けたのですが、それ以降の賀川の行動にも一因がありそうです。彼は憲兵隊から尋問を受けるものの、結果的に、戦争に協力するかたちを取ることを選び、解放されます。日本の貧困をなくし、国力を増すために、日本の満州進出や、米国を敵視する国策に協力(他のほとんどの牧師、神父たちも戦争協力)していきます。

 倉橋氏は面白いことを指摘しています。「もし、この時、賀川が獄死していれば、彼は殉教者にして希代の英雄になる。日本国民の尊敬を一身に受け、彼の名は永遠に光り輝く。彼の屍から、百万のプロテスタント信徒が生まれる」

 「賀川が憲兵隊の弾圧に屈することなく、長い牢獄暮らしを選んだとする。そして、幸いに戦後まで生きのび、無事、釈放されたとする」。その場合、アメリカは彼を放っておかず、首相に据えたことだろう、というのです。

 そして、賀川のためにも、日本のプロテスタントのためにも、「こうした機会を逸したことは残念でならない」と結んでいます。

賀川を失うことで大衆化が阻まれたか?
 賀川から距離をとった当時の主流であった正統派キリスト教会は、大衆への強い影響力と信頼を勝ち得ていた彼を失います。そして、結果的に、現在もその影を色濃く反映している中産階級以上の人々のための教会形成に、自らを追い込んでいったのでしょう。

 本雑誌で、宗教学者折口氏はこういう内容のことを言っています。ーー戦争中に大衆の人気を得ていて、戦争協力もした多くの文化人、たとえば作家の吉川英治、大佛次郎は、戦後でも、大衆の人気を回復した、内村鑑三も一部知的エリート層への強烈な影響しか与えられなかった中で、大衆に広い間口を持っていた賀川は、なぜか忘れられていった、それはまず、キリスト教界が彼を評価しなかったからだーーと。

 「(それは)戦後のパリサイ人によってなされ、賀川が排除され、葬られていく。大学や教会指導部にそういう人がたくさんいた。(大衆向けの活動、発言も)槍玉にあげられていく。賀川の私的な活動として切って捨てられてしまう」(折口氏) こうした耳の痛い話を、今のキリスト教界は認めるでしょうか?

 戦後、二度もノーベル平和賞候補(55年、59年)にノミネートされた賀川は、それが決まりそうな直前の60年に天に召されました。もし、受賞していたら、キリスト教会は、どんな態度を取ったでしょうか?

正統派教会人へのチャレンジ(賀川の言葉)
「『行ひ』を離れてのキリスト教は、精神を忘れた空文に等しい」

「日本の神学は一体理屈が多くて六ヶし過ぎる」

「神学それ自身の目的にはあまりにかけ離れた道を迂回している」

「幾ら『私は教会に行きました。祈もしました。アーメンとも云いましたよ』と辯解しても無駄である。(略)地上の最も詰まらぬものの一人に奉仕することが、キリストへの奉仕であることを(イエスは)教えられた。(略)最微者(いとちいさきもの)にしたものが即ち王(神)にしたのだ」

 賀川は、当時の教会に向けて、かなり強烈な言論を発していたようです。

 彼の宣教開始100 周年を今年迎えていますが、少しずつ彼についての本も出ているようです。今や主流の正統派キリスト教会は、彼の言っていた社会的弱者に対する奉仕をかなりするようになっています。しかし、彼のチャレンジは、いまだに有効に思えます。私たちはこれから、どう応えていこうとするでしょうか。

(今回の雑誌には、戦争に協力した賀川本人のそのことへの悔恨、反省の告白をしたかどうかについては書いてありません。キリスト教会は一部を除き(ホーリネス教団など、虐待を受けて獄死した人が何人も出た)、ほとんどが戦争協力をしたわけですが、彼は戦争について、戦後、どう言っているかについて知りたいと思いました。)

賀川豊彦物語
タグ :

賀川豊彦は戦後なぜ忘れられたのか(3)

 2009-08-26
当時のキリスト教会は彼の働きを無視した
 賀川の神学的立場は、「賀川豊彦は戦後なぜ忘れられたのか(2)」で説明した自由神学のようです。すなわち(聖書を批判的に見たかどうかは分かりませんが)、科学思想、社会思想なども、よいと思われれば取り入れます。それは、マルクス主義、労働運動、進化論(社会進化論)などですが、科学者でも、学者でもない彼は、厳密に理解していたというより、我流で理解していったようです。

 しかし、あくまでキリスト者としての信仰、生き方を貫いたために、賀川が創設した労働運動などで、しだいに指導権を握っていく非キリスト者の急進的左翼思想家から、批判を受け、距離もとられ、影響力を失っていきます。

 また彼が当時の教会という権威(簡単に言えば、教団の牧師、神学者)の下で動かなかったので、教会指導者は、彼独自の運動として見なし、距離とるわけです。彼は牧師なのか、伝道者なのか、社会活動家なのか、はっきりしないことも、原因がありました。

 賀川側は、当時、日本にかなりの貧困層があり、苦しんでいる人々がいるのに、そこに福音を伝えたり、その苦難から解放するという宣教を教会があまりしなかったことを批判します。彼は、「神の国」は、抑圧された、貧しい人々に中に実現するという、聖書の預言的、開放的メッセージを実際に現場に入り込んでで実行しようとしました。

 神学は、貧しい人々の中から生まれると信じ、公務員、官吏、教師、会社員という都会の中産階級の宗教と化した、個人主義的キリスト教と教会を、自分の働きの場と考えませんでした。

強烈な賀川の言葉
「今日の教会には一向に行きたい気がしない。感傷的(センチメンタル)な連中のみが徒に多くて、少しも心を引きつけられない」
 
「見よ、神は最微者のなかに存す。神は監獄の囚人の中に、塵箱の中に座る不良少年の中に、門前に食を乞う乞食(原文ママ)の中に、施療所に群がる患者の中に、無料職業紹介所の前に立ち並ぶ失業者の中に、誠の神はいるのではないか」

「売春婦、浮浪者のなかに傷を負ったイエスの姿を見る」

「福音とは解放ということで、それは罪よりの解放である。罪とは精神的罪、心理的罪、経済的罪、肉体的罪、社会的罪で、(聖書は)その凡ての罪に対する解放の福音書である」

「信仰とは主知的に教条を鵜呑みにすることではない」

 これに対し、明治大正時代のキリスト教会の実力者で、今も彼についての著作が毎年出版され、尊敬されている正統派の中心人物、植村正久牧師は、こう言ったそうです。

「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」

 これは当時も今も、傲慢にして、ひどい発言だと思います。それは、ふいに口を出たその場だけの言葉なのか、植村の生涯に一貫した思想なのか、調べてみる価値がありそうです。

 さらに、「自由主義神学」に鋭い批判の目を向けるカール・バルトによる「新正統主義」が、日本の主流派教会の神学の主流となったとき、人間の努力による社会改良を目指すかのような賀川の思想は、「人間中心主義」「人間や文化の発展に対し楽観的過ぎる(自由主義)」「未熟な理想主義」と見られていきます。

 栗林氏は、「実に賀川こそ日本の最初の解放神学者だった。にもかかわらず、日本のキリスト教会は、彼を高く評価してこなかった。いや、葬り去った」「(彼は当時の)教会に目障りであり、鬱陶しくもあったからである」と記しています。(『at』15号 p.54)

 今では社会活動を活発に行っていることで知られる(そうとばかりと見られがちな)メインラインの正統派キリスト教会が、当時は、そんなだったのでしょうか?

 ここ20年くらいの間に、日本の主流派教会の指導層が評価している「解放の神学」。それを、日本から遥かに遠い中南米の圧制と貧困の中で命を賭けて闘ったカトリック司祭から学んでいます。しかし、自らが属する教団の先輩たちは、目の前の同じ信仰にある兄弟、日本での最初の解放の神学の先駆者・賀川豊彦を遠ざけたとは。世代が変わったことで、態度がガラッと変わったのでしょうか。
タグ :
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫ 次ページへ ≫