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傑出したリーダー、人格者(かも)。ザック監督

 2011-01-31
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th_ アジア・カップで


 北アフリカなど、世界が大きく変動してる現在、趣味の話題ですみません。

 さて、予想以上に楽しませてくれたアジア杯。ヒヤヒヤでスリル満点だったが、優勝という歓喜をもたらしてくれた。選手たちも、ベテラン、若手が力を出し切り、素晴らしかった。そして監督の存在、手腕が大きかったように思う。そしてアジア杯は、サッカー後進国のイベントから脱し、世界(欧州)の感心が注がれる大会になってきた。

 クラーマー(ドイツ人)、オフト(オランダ人)、トルシエ(フランス人)、ジーコ(ブラジル人)、オシム(旧ユーゴ)、ザッケローニ(イタリア人)と、日本代表を指導してきた外国人監督は多彩だ。それぞれに特徴があって、大きな貢献をし、日本の島国育ちのサッカー界を変革するカルチャーショックを与えてきたと思う。

 そのなかで今の監督、ザッケローニ氏は、どういう特徴があるだろうか。素人ファンである私は、テレビやネット情報しか知らないが、ある印象を受けている。

 まず、代表選手に対しベテラン、新人に関わらず敬意を表し、人間として大切に遇しているように思う。年長、実績、権威を前面に出し、人を威圧するようなことがない。そして、コミュニケーションをよくはかっている。レギュラー、控え、どの選手にも、自信を持たせるよう振る舞っている。選手一人ひとりによく目を配り、気にかけていることを言葉で、振る舞いで伝えている。選手の特徴、人間関係をよく観察し、個性を理解しようと努め、生かそうとしている。個人への悪口、批判は決して公で言わない。毒がない。落ち着きがあり、親しみやすい経験豊富な紳士。
 今回の監督の言葉から目立つのは、「(選手への)信頼、成長」だ。

 ある集団を率いる指導者の理想型の一つをなしているように思う。

 試合中の選手交代のタイミングも驚くほど的確で、選手の選択も理にかなっていて「なるほど」と思わせる。これまでの監督の中には、見ていて「まだか」とイライラさせられる人もいた。

 彼は直観を重視する天才肌というより、知性を感じさせるし、洗練されている。こわもて、豪腕で選手を支配するタイプの監督はイタリアにもいると思うが、そうではなく、欧州の長いサッカー文化の深さを背景に、知将という風格を感じさせる

 最後の切り札として投入した李選手は、監督の「信頼」に応え、オーストラリアの世界レベルのGKが動くこともできないほどの美しいボレーシュートを決めた。延長試合の疲労が極みに達した戦いに、あっけないほどの華やかな終止符を打った。

 ザッケローニ監督は、出場機会の少なかった李選手に、こうような意味のことを言って鼓舞したという。
「お前のプレーは、Jリーグで何度も見て私はよく分かっている。自信をもってやれ」

 選手への信頼があり、それが伝わる言い方だ。

 イングランド、ドイツ、イタリア、ブラジル等、歴史が長く、国による特徴が確立されている国に比べ、日本は今、自分たちのスタイルを模索し、形成しつつある。

 もしかして日本のファンは、これからの日本のスタイルを確立するプロセスを目撃するという、とても興味深い、特権とも言える瞬間に立ち会っているのかもしれない。


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オシム流思考(お遊び)

 2009-07-14
現代の世界有数の知将、サッカー元日本代表監督オシム氏の言葉からの「言葉遊び」です。(以前のパロディ「名将オシム監督」)

(1)監督の資質について

「監督はもっとアイデアを持たなければならないし、もっと自由を与えられなければならない。最初にアイデアがなければならないのは監督なのだから。

 選手も一定の自由がないと駄目だ。何かに挑戦して素晴らしいゴールを決めたりしたら、いつもしかったりしなくてもいい。

 監督がいつも選手よりよく知っていると考えるのは間違いだ。選手の方が監督よりアイデアがあることがよくある。でも、日本では選手が監督よりもアイデアがあることは許されない。これは問題だ。(私は)個人的に選手からいろいろと学んだ。選手がやっていることを見ているとアイデアがわいてくる」

(パロディ) 
キリスト教会の指導者の資質について

「教会の指導者はもっとアイデアを持たなければならないし、もっと自由を与えられなければならない。最初にアイデアがなければならないのは指導者なのだから。

 信徒も一定の自由がないと駄目だ。何かに挑戦して素晴らしい証しをしたら、いつもしかったりしなくてもいい。(日本のスポーツの監督は、選手がいい結果を出してもほめず、しかってばかりいるように見えたのだろう。教会はそういうことはないが、個人の貢献を認め、感謝を表したり、ほめることはたしかに少ない。一部の人を特別扱いすると嫉妬をかったり、高慢させるから? ほめることはしかるより難しい。)

 指導者がいつも信徒よりよく知っていると考えるのは間違いだ。信徒の方が指導者よりアイデアがあることがよくある。でも、日本では信徒が指導者よりもアイデアがあることは許されない。これは問題だ。(私は)個人的に信徒からいろいろと学んだ。信徒がやっていることを見ているとアイデアがわいてくる」



(2)選手が育たない理由は

「練習でもアイデアがなければならない。日本人はよそのまねをしすぎている。自分を向上させようとしていない。

 それも、日本の伝統なのだろう。ほかのところで優れているものを取り入れようとする。

 日本人はドイツ人や英国人にはなれない。それは受け入れた上で発展しなければならない」


(パロディ)
信徒が育たない理由は

「信仰生活を過ごす上でもアイデアがなければならない。日本人はよそのまねをしすぎている。自分を向上させようとしていない。

 それも、日本の伝統なのだろう。ほかのところで優れているものを取り入れようとする。

 日本人はアメリカ人や韓国人にはなれない。それは受け入れた上で発展しなければならない」

オシム元監督、 インタビュー
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リーダーにカリスマ性は必要か?(ドラッカーに学ぶ)

 2007-02-12
 ピーター・ドラッカー氏というと、自分とは関係ないと思っていた。05年11月、95歳で亡くなったばかり。たしか、聖公会(英国系キリスト教会)の会員だったとか聞いていたし、リック・ウォーレン牧師も、教会をはじめるに当たって相談したとか、しなかったとか・・。人格もすぐれていたというのは聞いている。

 昨年、書店に特集コーナーが設けられたので、何か入門的なものをと、『プロフェショナルの条件』(はじめて読むドラッカー/ダイヤモンド社)を購入。(原題:The Essential Drucker on Individuals)
 しばらく放っておいたが、最近、妻が読んで、「これは、あなたが読むべき本じゃないの?」
 と言われ、「ええ? そうなの?」と、久しぶりに手に取った(私が選んで買ったのですけどね)。

『プロフェッショナルの条件』と、邦題がかっこいい。副題は、自己実現とか、成果をあげるとか、成長とかあるし、宣伝文句や目次を見ると、成功、生産性を高める、競争力、繁栄、組織、強みとか・・・この世の実利的な世界で歓迎される言葉があふれている。

ドラッカーの本は、自己実現のための本なのか?
 編訳者あとがきを見ると、「本書は稼ぎ方の本ではないし、単なるキャリア・アップのためのものでもない。それは〈何をしたらよいか〉を越え、〈自分を使って何をどのように貢献したらよいか〉に答えを出そうとするものである」とある。

 そこで、考えた。ドラッカー氏が本当に言いたいことは、果たして「繁栄、成功の哲学」、自分の欲望を満たそうとも受け止めかねない「自己実現」だろうか、と。

 拾い読みとしてみると、「イエズス会、カルヴァン派が、16世紀になぜ大きく成長したか」などの手法も出てくる。芸術家の例や、ベートーベン、モーツアルト、キリスト教の歴史的な例が出てくる。

 なんか面白いじゃないですか!

リーダーとカリスマ性
 パート4 4章「仕事としてのリーダーシップ」を読んで、「え、え~? そうなんだ!」とびっくりした。以下は、自分なりの要約。

 リーダーシップは重要である。だが、カリスマ性とは関係ない。リーダーシップとは手段である。何のためのリーダーシップかが問題である。
 スターリン、ヒトラー、毛沢東ほど、カリスマ的なリーダーはいなかった。アイゼンハワー、マーシャル、トルーマンは希にみるほどのリーダーだった。だが、いずれも爪のあかほどもカリスマ性を持っていなかった。リンカーンほど、カリスマ性を感じさせない人物はいなかった。

 カリスマ性はリーダーを破滅させる。ジョン・F・ケネディは、歴代の中でもっともカリスマ性があった。だが、彼ほど何もできない大統領はいなかった。生まれながらリーダーに向いている人などいない。いろんなタイプのリーダーがいるだけである。

 リーダーとは何かというと、次の三つの要件があげられる。

 役割──リーダーシップを自分の仕事として引き受ける。
 責任──役割を、地位や特権としてではなく、自分の責任として引き受ける。部下の成功を歓迎し、自分の成功ととらえる。
 信頼性──すべての人から賛同を得られないとしても、言行一致(integrity)がある。信頼性がなければ人はついてこない。



カリスマ待望論
 キリスト教界にも、強いカリスマ性のあるリーダー待望論があるように思う。首をかしげながらも、そのような人が出てこないと、現在の低迷を打破できないのではないかという意見に組みしそうになる。
 とくにテレビ、話術、外見などが選挙に影響を与える昨今の世相を見るにつけ、今こそ魅力的なリーダーが必要だというムードに流されてしまいそうだ。(強力なリーダーによるキリスト教系カルトが、たいへんな社会問題になったというのに。)

 しかしドラッカーに見る、これから必要とされるリーダーとは、そうではなさそう。カリスマ性を過度に評価するのは危険ですらあるのだ。
 カリスマ性がある人もない人も、それぞれの人柄を生かしてリーダーの責任を引き受け、守備一貫した生き方を示していくことが大切なのだ。

 リーダー向けでない人はいるが、私たちのほとんどはリーダーとしてのスキルを身につけることができる、とドラッカーは言っている。──面白い視点だと思う。
 
 本格的に読むことをせず、遠ざかっていたドラッカー、もしかして、私はとんでもない勘違いをしていたかもしれない。
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名将オシム監督:知恵の言葉

 2006-08-28
世界でも指折りの監督就任
 世界的な指導者となると、それがどの分野であろうと、優れたものをもっていると言えるのではないでしょうか。ただし、真の指導者である場合です。
 ここで言う真の指導者とは、多くの人を直接指導し、教育し、手腕を発揮したという意味(臨床の現場)で優れた人のことです。

 この点、今度のサッカー日本代表監督に就任したイビチャ・オシム氏は、そのような存在として世界で指折りの指導者です。なかでも、まわりの人に感銘を与え、サッカーをする喜びと楽しみを与え、選手たち独自の才能や賜物を創造的に発揮できるように助ける指導者として知られています。自分は監督(コーチ:語源は調教師)と呼ばれるより教育者と呼ばれたいと言っています。

 オシム監督は、大学教授にも医者にもなれた人で、反対を押し切ってサッカー指導者になった人です。その話す言葉は意味深く、機知に富み、意外性や想像力を刺激するため、話題を呼んでいます。人間という複雑な存在への優れた洞察があります。旧ユーゴスラビアの出身で、残酷な戦争による民族分裂の悲劇を体験した人です。かつてユーゴ代表監督として、世界的タレント軍団を指導しました。

オシム語録をクリスチャン・バージョンに変換してみると・・
 私はたまに戯れにするのですが、キリスト教界以外の指導者で、人間への洞察力と教育的に優れていると思われる人の言葉を、クリスチャン・バージョンに変換してみます。すると、十分通用する新鮮な発見があります。サッカーとキリスト教会ではまったく前提が異なりますが、それでも人間に共通する真理を射ているように思えます。
 以下、オシム語録を、私なりの言葉でクリスチャン版に変換してみました。ご笑覧ください。『オシムの言葉』(木村元彦著)より

(1)働きにおける動機づけ
(オシム監督)「モチベーションを高める方法なんて何千通りもある。それぞれ違うのだ。〈略〉怒鳴られてやっている人間もいるだろう。時にはおカネを二倍払うからと言われてモチベーションを上げる人間もいるだろう。それはひとりひとり違うし、一概には言えない。ただ、いいプレーをしたらカネを二倍払うと言われたら、ろくなプレーはできない(笑)。そんなものだ。

 〈略〉私が実際に行っていることを話そうか。試合の前とかにはほとんど戦術の話はしない。モチベーションを上げるのに大事だと思っているのは、選手が自分たちで物事を考えようとするのを助けてやることだ。自分たちが何をやるか、どう戦うのかを考えやすくしてやる。お前ら、今日は絶対に勝たないとだめだぞとか、相手の足を削ってでもゴールを守れ、そんなことは絶対言わない。別に勝たなければならない試合なんてないんだ、お金云々ではない。

 でも、とにかくお客さんは少なくても来てくれる。まずは自分たちのために、自分のやれることをやり切るということが大事だという話をする。次に対戦相手が自分たちと試合するに当たって何を考えて臨んできているかということを思考させる」(P.182)

(クリ版)「キリスト者として日々生きていく上でのモチベーションをあげる方法は、それぞれ人によって異なる。教職者や他の教会員の批判を恐れて奉仕する人もいるだろう。教会で名誉ある位置を得たいがために意欲が高まる人もいるだろう。そんなときは、ろくなことはできない。

 わたしの場合、モチベーションを上げるのに大事だと思っているのは、信徒たちが自分たちで聖書をもとに物事を考えることを助けてやることだ。つまり、指導者が前に出て何でもしてしまうのでなく、信徒たちが自分たちで何をしたらよいか、どう福音を伝えたらよいかを考えやすくすることだ。会員を絶対獲得しなければだめだとか、犠牲者が多少出てもしかたがないとは絶対言わない。別に会員を増やさねばならないことはないんだ。人数ではない。

 でも、新来会者はきてくれる。まずは、自分たちが神との関係を正しく保ち、自分なりにできることをせいいっぱいすることが大事だという話をする。次に、教会に来る方やイエスを知らない人たちが、何を考え、何を求めて来るのかを思考させる話をする」


(2)システム(理論)と人間
(オシム監督)「無数にあるシステムそれ自体を語ることに、いったいどんな意味があるというのか。大切なことは、まずどういう選手がいるかを把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ」

「日本人は本当に戦術やシステムを語ることが好きだ。しかし、サッカーには相手がある。4-2-4も3-5-2(布陣)も、相手を考えずにイメージするだけでは、空想上の機械体操だ」(P.210)

(クリ版)「たくさんある教会成長論、伝道論、宣教論それ自体を語ることに、いったいどんな意味があるというのか。大切なことは、まず教会や宣教団体にどういう信徒がいるかを把握することだ。教会員のそれぞれの個性を活かすシステムでなければ意味がない。システム、戦略、宣教論が人間の上に君臨することは許されないのだ。

 日本の教会や宣教団体は本当に戦略やシステムを語ることが好きだ。しかし、宣教(伝道)活動には相手がある。自分たちの組織やプログラムも、相手となる人たちがどういう人なのかを考えずにイメージするだけでは、空想上の機械体操だ」


 なかなか言えてる、と思いませんか?
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