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「それはピザではなく(not)、(but)ケーキである」

 2008-06-03
 昨年の3月のジェームス・フーストン氏のセミナーに参加したとき、講演以外の時間のときだと思いますが、同氏がこう言ったことがあります。

ギリシャ的思考方法?
「自分たちが何者であるかは、ギリシャ人にとって大きな問題だった。そのとき彼らはこういう言い方をした。『ギリシャ人とは何々であり、何々でない』」

 そういえば、私がかつてドイツ人宣教師の教会に集っていたとき、メッセージで、よくこういう言い方をしていました。「教会とは○○○ではなく、○○です」「キリスト者とは○○ではなく、○○です」
 英語で言えば、「~~not(ノット)~~、but(バット)~~」。ドイツ語で言うと、「~~nicht(ニッヒト)~~、sondern(ゾンデルン)~~」

 かつてドイツに滞在したとき、テレビやラジオでの国会討論会や知識人による討論会でも、議論が始まる冒頭に「~~nicht(ニッヒト)~~、sondern(ゾンデルン)~~」とひんぱんに定義しながら言っていました。さすが、哲学(神学)と議論と論理の国。

 これって、いったい何でしょうか? 日本人の自然な発話、会話のなかにはなかなか登場しない言い方だと思われます。「肯定文」と「否定文」の組み合わせ。

 (A)「~であり、~ではない」「ケーキであり、ピザではない」
 (B)「~ではなく、~である」「ピザではなく、ケーキである」

 この(A)と(B)の違いは何でしょうか? 私が感じる違いは、同じようなことを言いながら、どちらも前半に強調点があるように思われます。皆さんはいかがですか? まあ、コンテキストにもよるのでしょうが、同じ意味と思う人もいるでしょう。

 私は専門家ではないので分かりませんが、どうやらギリシャ語にルーツがありそうです。ギリシャ語で書かれた新約聖書のパウロ書簡のなかに盛んに出てきます。

パウロ書簡にひんぱんに登場
「律法の行ないによってではなく(否定)、キリストを信じる信仰によって義と認められる(肯定)」(ガラテヤ2:16)、「もはや私が生きているのではなく(否定)、キリストが私のうちに生きておられる(肯定)」(同2:20)、「ユダヤ人もギリシャ人もなく(否定)、<略>キリストにあって一つ(肯定)」(同3:28)

 もちろん、ローマ書その他にも、たくさん登場します。ガラテヤ書は、ユダヤ系キリスト者のリーダーによって、非ユダヤ系の信徒にユダヤ的伝統や律法主義が持ち込まれたことへの警告、真の福音とは何かを記したもの。「私たちが宣べ伝えた福音に反すること(律法主義)をあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」(同1:8)というパウロの激しい怒りの言葉に見られるとおり。

教会の健全化のためのヒント
 本ブログにリンクを張ってある村上密 牧師のブログ(教会のカルト化、私物化問題に果敢に取り組んでおられる)にも、最近このフレーズを発見しました。

「教会が健全であるかどうかは、人数が多くて献金が多いかではありません。正義と公正が行われているかです。熱心に奉仕をする人がいるかではなく、謙遜な人がいるかです。牧師が崇められるのではなく、キリストが崇められているかです。牧師に依存する人が多いかではなく、自律した信仰者が多いかです。牧師が権威を振り回さず、忍耐を持って牧会をしているかです」(ブログより引用)
 まったく、そのとおりですね。本質(あり方)が鮮明になります。

 ヘンリ・ナウエンも、よくこうした言い方を採用しています。

「クリスチャン・リーダーシップに求められるのは、上昇の道ではなく、下降への道です。力と支配によるのではなく、無力さと謙遜さによるリーダーシップです。ひ弱で、何でも他人に決断してもうらう人のことではなく、イエスを愛しているがゆえに、イエスの導く所ならどこであろうと従う用意があり、そこに命が見いだせると信頼し続ける人のことです」(要旨『ナウエンと読む福音書』153頁~)。

 このような物事のとえら方、展望、理解は、「教会とは」「牧師とは」「リーダーとは」「権威とは」「キリスト者とは」を問い、考えていくとき、その健全性を保つ上で重要なツールとなっていくのではないでしょうか。

(それにしてもフルーツケーキ、おいしそう。誰もピザとは思わないよね。ー吉祥寺の街角)
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フーストン氏による集中セミナーに参加しました(3)

 2007-04-23
ある牧師との出会い(指導者との友情は可能か)

フーストン氏にちなむ話題は、今回で最終回にしたいと思います。
以下の出来事は、「オリーブの里」でのセミナーでのひとこまでした。


食卓にて
 ある夕食の時でした。まだ誰も座っていない食堂のテーブルを選んで、私が先に座っていましたら、真向かいに、あるベテランの牧師がいらして、こう話しかけてきました。

「座っていいですか? まだ対面してお話ししたことがないですね」

「はい、どうぞ、喜んで」

 結局、その方とはあまり話ができず、すぐあとからやってきた隣の方たちを交えた歓談の場となりました。

 次の日の朝食になりました。食堂に入り、どこに座ろうかと迷っていると、昨晩の牧師の横の席が空いていました。そこで、今度は私から話しかけ、隣に席をとりました。対面するより距離が近いので、話しやすいです。しばらくして、こう言いました。

「昨日、あれから気づいたことなのですが、私の内に、『先生(牧師)』と名のついた人への遠慮、できれば敬遠したいという気持ちがあるのに気づきました」

「ほう、それはまたどうして」

「ええ、それは『先生』という存在は私にとって、評価する人、値踏みをする人、教会に協力的か、そうでないかを判断する人、つまり『成績をつける人』の意味もあることに気づいたのです。ですから、よっぽどの用事がない限り、近づかないに越したことはない、と……」

「はあ、そうですか。ホントは、そういう存在ではないはずなのですが・・」

 たぶん、私固有の過去の記憶が、そういう思いをさせているのかもしれません。

友情について
 朝食での話は、他のテーマにも及びましたが、その後、フーストン氏の午前の講演の時間になりました。二回目でした。テーマは急遽、順番を変え、「牧会者と友情について」にすると、会場で告げられました。

 冒頭の部分で、フーストン氏はこう語りました。

「たぶん、北米の神学校だと思いますが、教授が学生にこう教えていました。『牧師になったとき、信徒とあまり親しくなってはいけません。距離をとりなさい』と」
 そして、間髪を入れず、こう言いました。

「バカげたことです!」(クレージー!)

 たしかにこれは私も、日本の牧師から聞いたことがあります。
「信徒と慣れ合いの関係にならないよう、気をつけなくてはならない」と。
 ある意味当たっていると思いますし、すべてのメンバーと平等に近づくことは限界がありますから、特定の人だけ特別に親しくなることは難しいと思います。

 フーストン氏は続けました。

「イエスは、よき教師であったばかりでなく、友になってくださいました。ですから、牧会者も、信徒のよき友になることが大切です」

「この世の上下関係という価値観を、教会に持ち込んではなりません」
(日本のタテ社会を知った上で、こう言われたのかもしれません。)

「技術社会がますます進んでいき、人々の孤独がますます深まっています。教会は、それへの対抗文化を形成すべきであって、その中で大切なのは『友情』ではないでしょうか」

牧師と信徒の友情は可能であってほしい
 さらに、多岐に渡って友情についての豊かな内容の講演は続きました。その詳細は、とても書き切れません。しかし、「牧師」と「信徒」、「指導者(先生)」と「指導される側」──こうした役割指向、立場指向に(必要なことですが)、日本の文化独特の価値観が入り込み、イエスがもたらした「友情」という大切な財産を、もしかして私たちは(北米も?)生かし切れてないのではと思いました。

 昨晩、また朝食での牧師との会話を思い出しました。見事につながったではないか、と。そして自分の内に、いつの間にか形作られた価値観を、しばらく顧みる時間になりました。

「友情」を築くという課題は、これからの日本の教会のあり方に一石を投じただけでなく、光をも投じた大切なテーマではないかと思います。
 自分にとっても、これまでの長い信仰生活や教会生活を振り返り、深く共感するとともに、これからの方向を示す貴重な学びでした。
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J・フーストン氏の講演CD, DVDが購入できます

 2007-04-16
 講演会に参加できなかった方々のために、録音記録が購入できるようになりました。上野の森キリスト教会のサイト内にあるページで必用な情報が手に入ります。(写真:最近、私のもとに届いたCD)


ジェームズ・フーストン師 講演 DVD・CD 販売

(1)DVD(二種)
  上野の森キリスト教会での礼拝メッセージ、出版記念講演会です。

    「正しい者の道」 詩篇1編 礼拝メッセージ

    「『喜びの旅路』出版記念講演会」

(2)CD-R(三種)
   三泊四日のセミナーでの講演・質疑応答とシンポジウムでの講演です。

   「スピリチェアルライフ・セミナー(CD 3枚)」

   「同上・質疑応答(CD 2枚)」
     質疑応答を含めたセット(5枚で4,000円)で購入なさることをお薦めします。

    「心の井戸を掘る」~ポストモダンの行き着く先を見据えた牧会を目指して~(CD 2枚)
    他の講演、シンポジウムもありましたが、フーストン氏のみの記録です。

 良心的な価格(送料込み、国内)、クリアな音質でうれしいです。
 PDFファイルをダウンロードして、ファクスして注文するのが、便利だと思います。

 「たくさんあって聞くのが大変、費用もかかるし・・とりあえず、どれか一つだけ」という方には「スピリチュアルライフ・セミナー」が一押しです。できれば、「質疑応答」も併せて。
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フーストン氏講演についてのネット情報

 2007-04-13
 J・フーストン氏の来日講演にかかわることで、ブログやネットで報告しているところは、まだあまりないようです。
 参加者が限られていることもありましょうが、貴重な機会を活用し、意見交換がなされるといいですが、これからなのでしょう。

キリスト教メディア報道
 その中で、「クリスチャントゥデイ」(「Christianity Today」誌ではない)の報道が、さすがインターネット新聞ということもあり、早い報道でがんばっています。
 上野の森キリスト教会での「一日シンポジウム」から、かなりな数の記事を書いてくれていています。内容が濃いので、読んで理解するのがたいへんですが。

 CT誌記事は、記者の目をとおした一部を取り上げています。すべてを網羅することは困難ですし、読みとれるニュアンスも、実際と多少異なるかもしれません。(メディアとはそうしたもの。)

 リバイバル新聞でも一面に取り上げられました。4月15日号だと思います。記事はなかなかの力作で、今回の訪日の意義のいったんを伝える優れた内容だと思いました。現在、前号のネット表示がありますが、近日中、期間限定でネットで読めるかもしれません。

 クリスチャン新聞では、新刊出版記念講演会の概要が最新号で記事になりました。担当記者の方によると、本格的な内容はこれからで、何回かにわけて報告があるようです。

 以下は、クリスチャントゥデイ誌による記事。

今求められる教会の刷新 霊的遺産の古い井戸と新しい井戸を掘る必要。
 記事の後半は、「カトリック教会の刷新をふさいだのはマリア崇拝だ」と「批判した」と読めますが、フーストン氏は、カトリック側で言えば、いくつかあるなかで、「たとえば」と言ったのであり、「批判」というより「指摘」だと思います(同じことかな?)。プロテスタント側も、今回の講演で指摘されたように、たくさんあるわけです。

ポストモダン時代における牧会者の心得
 牧会者の専門家指向への警告
 重要な指摘だと思われます。

ポストモダン時代、技術主義、心の病
 記事には「今やポストモダン時代が到来と宣言」「ポストモダン時代の到来を助長した要因の一つがインターネット」とありますが、ポストモダンはインターネットが普及する以前に、とっくに到来しているのであって、フーストン氏もそういう論調のはずだと思いますが・・。

フーストン氏との質疑応答
 もっと主要な質疑がありましたが、インターネット技術が与える影響の記事が長いです。(ちなみに、私が会場でした質問でした。笑)
 これはCT誌ゆえでしょう。書く立場によって強調が異なるのですね。
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フーストン氏による集中セミナーに参加しました(2)

 2007-04-10
 オリーブの里でのセミナー報告(3月26日-29日)の続きです。
 今回のセミナーが、これまでにない出会いを生んだ要因はたくさんあると思いますが、私が感じたいくつかのうち、二、三を選んで記します。(写真は4月2日上野の森教会シンポジウム)

参加者が互いを名前で呼んだ
 最初、セミナーに臨むにあたって、「先生」等、社会的役割、地位を示す呼び名は避け、呼んで欲しい名前で呼び合うように決めました。
 背景が異なるさまざまな教職者、信徒が参加しましたが、これでお互い、名前以外はほとんど知らない存在となりました(笑)。自己紹介の時間もありませんでした。
 このことで、休み時間や食事のテーブルなどで、つい意識してしまう役割や気遣いから解放され、ありのままの人格と人格の出会いが生まれた一因ではないかと思えます。多少、ぎこちなさはありましたが、それも一興。

歴史的に私たちを理解する
 フーストン氏は講演のはじめに、「なぜ私たちは、聖書に学び、キリスト教の歴史に学んで、自己をとらえることが必要か」ということを述べました。
 それは、聖書がそう書かれているからだそうです。たとえばイエスが、幼少期にエジプトに避難し、やがて帰還することが、旧約の出エジプトと重ねることができるように、私たちもまた、聖書で起きた出来事や過去の歴史に自分を重ね、そこから人生の意味や意義を見いだすことができる、ということです。

「過去の現在」「現在の現在」「将来の現在」(聖書で、「今いまし、昔いまし、後に来れる方から・・」黙示1:4-5ということか。)という言い方もありました。
 これは、聖書の出来事、フーストン氏の生涯、参加者の生涯が、互いに無意味なものではなく、関連があり、そこから学ぶことができる、ということにつながると思います。確かにキリスト者は聖書を読むとき、そのような捉え方をします。
 こうした全体的なとらえ方が、参加者の経験や出会いを意味あるものとするインスピレーションを与えたと思います。

個人面接の時間
 フーストン氏は、午後4時から2時間、二回にわたって、希望者と個人面談(通訳あり)の時間を持ち、さまざまな悩み、課題に耳を傾けてくれました。そして、ふつうでは思いつかない角度からの洞察とアドバイスをしてくださいました。

 ある人は驚き、ショックを受け、ある人は涙を流し、目が開かれたりして、人生をとらえ直すきっかけが与えられたようでした。面談後、さっぱりしたような顔になった人もいて、重荷から解放されたかのようでした。問題がすべてが解決したわけでないにしても。

「受容型カウンセリング」というより、フーストン氏は、「対決型カウンセリング」とも言えるような、個人問題に、ぐさっと踏み込んで答えてくださいます。それは人を傷つけるというより、新しい見方、展望を示してくれる感じです。

 私は、前回来日された機会に、個人面談を持ちましたし、それを雑誌『百万人の福音』(2001年)に載せる機会がありましたので、今回は遠慮しました。(いえ、単なる臆病です(笑)。以前の対話は、以下参照)
フーストン氏との対話(その1) フーストン氏との対話(その2)

不肖、私も・・
 でも、もしかして面談の時間があまったら「もったいない」と思いましたので、主催者に様子を聞いてみました。そしたら、「今回はもういっぱいですが、東京へ帰ってからセッティングしましょう。ぜひ受けなさい!」ということになり、あとに引けなくなってしまいました。!(いやー、聞くんじゃなかった・・。冷汗タラタラ。そんなつもりではと、依然、臆病な私でした。)

 ということで、なんと4月2日の上野の森教会で開かれた、一日シンポジウムの合間に時間を取っていただきました。つごうで、10分間だけでしたが!
 でも、今後の生き方にヒントを得たよい時となりました。多忙な中、私のために時間をとってくださったことに対し、ただ、ただ感謝であります。
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