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来年の「グラハム大会」中止という日本側の決断について

 2012-12-07
 しばらく更新が滞ってすみません。
 新刊制作作業に集中しておりまして、余裕がありませんでした。
 そんな中で、すでにご存じの方もいるでしょうが、注目される記事があったので、アップします。

 フランクリン・グラハム大会の中止、苦渋の選択

 共和党のロムニー候補が不利と見たためか、選挙戦の終盤、テレビ放映も用いてグラハム親子がロムニー氏を支持、投票を促しました。そうした具体的な政治行動に対し、日本側大会責任者の決断は明快で、正当なものと思います。

 ビリー・グラハム宣教団側は、この件で足りなかった点を認め謝罪した、という記事も注目です。

記事本文より引用
「(日本側大会主催者は)この度のBGEA(ビリー・グラハム伝道協会)の行動が、米国の文化的環境の中で最善と信じてなされたことには理解を示しつつも、同時に、BGEAが特定の政治的立場に事実上関与し、異端であるモルモン教との教理的違いを軽視するかのような行動をとったことにより、協力体制を築くことは困難と判断した」

「BGEAのフランクリン・グラハム総裁およびチャド・ハモンド・アジア地区ディレクターは、今回の選挙におけるBGEAの行動により、(大会の開催場所だった)広島の諸教会に否定的な影響を与えたこと、国際的な伝道団体であるにも関わらず自国内の事情だけで行動し、地域の諸教会の宣教協力の環境を著しく壊してしまったことに対して謝罪を表明した」

 謝罪したことはよかったと思います。「国際的な団体なのに、自国内の事情だけで行動」した、という発言に真摯なものを感じます。

 国際レベルの団体は、今後もこうした点に気をつけるべきでしょうし、翻って、日本の各種団体のあり方でも参考になるのではないでしょうか。ぜひ、全文をご覧ください。

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『流浪の教会』を読んで考えてみた

 2011-06-24
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 前回のブログ記事を書いてからずっとこのテーマについて考えているが、いろいろと気づいたことがあった。

被害状況をつかむために
 大震災となれば、まず被害状況ということになる。そこでは当然、生死、人的被害、建物、土地の財産被害ということになる。教会と言っても、メンバーの被害についてすぐに把握するのは簡単でない。大々的に報じてほしくなこともあるだろう。
 キリスト教メディアがもっている情報は、まず教会の住所、代表する牧師の氏名だ。一方、会員の情報は保護されるだろう。公的な宗教者であり、群れを代表する牧師の連絡先は、出版物で誰でも知ることができるし、代表者に取材すれば、被害を代弁してもらうことも可能だ。教会メンバー情報の窓口ともなる。また対外的に、具体的な支援の必要の発信、受信がしやすい。だから、報道情報の順位は、1)牧師の安否 2)建物の被害 3)通常の行事、プログラム 4)教会メンバーの状況 となって通常なのだろう。

 緊急出版された『流浪の教会』を読み終わったが、特定の教会のケースであるにしろ、被害を受けた当事者の声を聞く事ができ、苦難、悲劇、支援、外からの援助、それへの教会のみなさんの対応、信仰、生き方など、生々しい現実を知ることができた。まだまだ変化する過程だろうが、直接被害をのがれた私たちが、被災した教会の現状を知ることができる意義は大きいだろうし、そこに描かれた信徒の群れの姿に感動する。
 ただ、いまだ心の整理、信仰的葛藤にある人もいると思う。それらの心情はまだ明らかにされてはいない。

「教会」には多重な意味がある
 本書を読む中で、「教会」という言葉が、いくつかの意味で使われていることに気づいた。それは特殊なケースというより、私たちが日常で用いる使っている用法のままだと思われる。

 そこで、私の疑問や混乱の解決の一つは、用語の意味を現状に合わせ、『「教会」という意味はいくつかの種類(多重性、多義性)がある』と受け入れればよいとに気づいた。私は、「聖書から学ぶ」ということを強調されたグループで育ったから、「聖書の意味はこうなのに、なぜ現実はこうか」という疑問に度々ぶつかってきたが、それは、意味は一つだけと思ってきたからだ。

 聖書に書かれた言葉の意味を現状に当てはめるとき、一つの意味だけを求めやすい。しかし現実においては(すべてではないが)、用いられ方が時代や国で変転する言葉があるので、ギャップを感じることになる。聖書が書かれた時期と現代の間には、2000年の月日があるのだから。

 現実に「教会」という用語を現代日本人が用いるとき、以下のような意味で多重な意味で使われているように思う。それは聖書の意味を含みながらも、多様な姿を呈す。(こうした考察を「臨床神学」と呼んではどうか)

 1)場所、建物
 2)交わり、信頼関係、コミュニティ
 3)聖書の示す意味(呼び出された信徒の群れ)
 4)理念、組織、教団、計画、指導者の人事
 5)プログラム、行事、規則、奉仕、義務

多重な意味があると理解する
 このように、その場、その場でいろんな意味を示す(未分化)現実を認めるなら、ストレスはおさまるかもしれない。

 というのも、『流浪の教会』でも、意味は多重、多層だったように思えた。まず、本のタイトルは2)、3)の意味になるだろう。

 本の中の記述、「教会が閉鎖」「教会に行く」「教会に入れない」とは、場所を示し、1)の意味になる。

 被害を受けて、これまでの資産、設備が使えないとなれば、「教会とは建物ではない。年間計画もすべてなくなった」となり、2)と3)の意味に戻る。

 牧師が教会を代表して参加する牧師会議であれば、4)となる。
 信徒側からすれば、その生活を規定し、それに合わせる必要のある5)の意味あいが強くなる。

もう一つの解決策
 多重な意味の不便さを解消するために、思いついた解決策は、これらに名前をつけて区分することではないか(分化)。名前がないから、これらをひとからげで「教会」と言ってしまわざるを得ない。

 例えば、教会を建物や場所など、物理的なものと混同しないために、建物に「本町会堂」「本町礼拝堂」など、施設に名前をつけるようにしてはどうか。カトリックでは、同じ敷地内に複数の礼拝所、祈祷所を持つことが多いので、それぞれ名前がついている。「聖堂」「小聖堂」「おみ堂(お御堂?)」等と。そして、それと別に教会名がある。

 日本のプロテスタント教会は、だいだい一つしか礼拝堂をもたないため、それに「教会」という名を与えている。間違いではないが、そのことで混乱も招き、さらに豊かな含意を失ったり、埋没させてはしまわないか。
 だから、一つしか建物をもたない教会でも、建物のことを、例えば「山川キリスト教会本町会堂」と名付けてはどうか。
 こうすれば、「本町教会に行く」という慣用句が、「(教会付属の)本町会堂に行く」という明瞭な言い方になるのではないか。

 本来なら「教会」は、自分たちの生活の場を離れて別な場所に物理的に存在するのでなく、自分を含めた、すでに築かれている信徒の群れ、信頼関係、コミュニティ、ネットワークのはずだと思う。
 「(あちらでもなく、こちらでもなく)真実とまことをもって礼拝するところ」ヨハネ4章

 このようにして私たちのうちで、「教会」が持つ豊かな意味を、名前を与えて分化し、それを意識化し、その内容を言葉で表現していけば、教会が持つ豊かな本質が再確認でき、「信徒の群れ」「主に呼び出された者の共同体」という本来性が、さらに回復されるのではないか。

ロジックによる解決
 ギリシャ的語法でものごとの本質をとらえようとする、もう一つの思索を前にブログに書いた。

「~ではなく、~である」

 これによると、前記事で引用した佐藤牧師の言葉がぴったり当てはまる。「教会は建物でも規則でもプログラムでもない(否定)。どんなに潰れても教会は生きていると思いました(肯定)」ヨーロッパ人の説教者は、よくこういうロジックで説教するようだ。私たちも、こういう言い方をどんどん思考方法や説教表現に採用すれば、明瞭性は増すと思う。

  と、いうことを考えてみた。
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震災から見えてきた教会の本質

 2011-06-17
 今回の東日本大災害は、誰でも一生に一度あるかないかの惨事だ。

 私も大変なショックを受けた。さらに同じ月、老齢の身内が亡くなったこともあり、かなり消耗し、仕事も手につかない時期が続いた。そこでさまざまな体験、気づきが多々あったが、ブログに書く余裕はまだない。

震災の中の教会
 さて、こうした大惨事のとき、私たちのうちで「教会とは何か」が問われてくると思う。「実際はどう考えているか」が出てくる。そこで浮き上がって見えるのが、実際の「臨床的な教会観(こういう言い方が許されれば)」。聖書の教え、神学、理解でなく、実際、私たちが「どう教会を生き、どう体感しているか」だ。

 そこで、各種キリスト教メディアが被災教会のニュースを報じるとき、どう報じるかに興味をもった。たしかに記者による個人差があり、同じメディアでもニュアンスが異なることもあるが、たぶん、一般の現実の意識を代弁しているかもしれない。

 メディアが報じた被災教会の内容の順番は、まず、1)牧師の安否、2)会堂の被害、3)会堂の中の行事が可能かどうか、4)会員の被害、消息、であったと思う。つまりここからえる教会観は、まず牧師であり、次に会堂であり、会堂内のプログラム、最後に信徒ということを示していないだろうか。

 ある記事は、「教会とは教会堂(建物)」であり、「会堂内のプログラム」という意味だった。一方、「教会(キリストの体=信徒の群れ)」と「教会堂(建物)」の違いを区別して書かれたものもあった。

 一般のメディアが報じる内容も、キリスト教会とは十字架が屋根についた建物であり、ステンドグラスであり、パイプオルガンだったりする。私も長いこと、そう考えていた。「教会」とは、「教会」という看板を壁に下げている建物であり、その壁の中で行われる活動や行事のことだった。つまり、集会が終わり、会堂のドアから出たら、そこは教会でない別の世界。

 さて、キリスト教会の歴史を初期から見れば、何世紀もの間、キリスト者は専用の会堂を持たなかった。その間、大災害、疫病、迫害、戦争があった。各種制度もなかった。それでも教会は進展した。
 ではそのとき、「教会」とは何だったのか? 
(だだ、聖典が確立していず、土着の宗教との混交や異端の教えの嵐にさらされる。そこで、教えの純粋性を守り、信徒を支えるためにも、「聖典」の成立や教職制度の確立を待つことになる)
 
福島原発近くの教会に起きたこと
 被災した教会について、ある記事に目がいった。それは、インターネットテレビのCGNTV発行の雑誌に載せられた、佐藤彰牧師(福島第一聖書バプテスト教会)のインタビューでの言葉だった。

 福島原発の20キロ圏内に新築した、たった二年しか使用していない現代的な美しい教会堂から放り出され、教会員も散り散りになってしまった教会。そういう現実を突きつけられ、絶望しかけ、もう牧師としての働きもおしまい、という想いにかられたという。(同教会の発祥は、原発建設より古い1947年、原発は1967年以降)
 しかし、避難した先で出会った教会員、同じ被災民との出会いによって、そこに新たな教会の姿を発見したのだという。

「教会は建物でも規則でもプログラムでもない。どんなに潰れても教会は生きていると思いました」と雑誌にあった。そして、特定な日の、特定の場所に集まって捧げる礼拝だけが教会ではなく、信徒と一緒の避難先の毎日が、生活の場が、教会となり、礼拝の場になったという。
 考えてみれば、会堂やプログラムや組織は大事だが、教会を支える「入れ物、器、手段」であって中身のことではない。
 今の特殊状況において成立したのかもしれないが、こうして何もかも奪われ、そのときに目覚めたキリスト教会の基本的な姿、本質、価値を教えられ、感動した。

 緊急出版として、佐藤牧師による記録と、信徒の証言が載せられた本が出たばかりなので、さっそく買い求めた。
『流浪の教会』(いのちのことば社 定価900円)
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有名牧師の逸脱行為。

 2009-02-10
 ここのところ、ある事件のことで気が重い。また、生活も慌ただしく、ブログ更新がままならない。

 本ブログは、センセーショナルな事件を追求したり、時事問題を議論する場ではないが、有名な指導者の性的加害行為、しかもキリスト者の霊的成長(霊性)を助ける立場の人が起こした事件(本人はまだ認めていない)が明らかになったため、あえて考えてみたい。意見できるほどの一次情報も見識も私にはないが、見据えるべき現実であることは間違いない。

被害の実態証言(被害の一部)
 最近公開された被害者の証言を記した告発サイトがある。こうした被害者の勇気ある証言が複数あったために、うわさの域を出て、周りの人が動けるようになった。(関係者の声明もPDF文書でダウンロードできるようになっている。)

 内部での改革、自浄作用が働くよう、忍耐をもって見守ってきた被害者、それを支援する教職者も、まったく変化が見られないのを見て、公開に踏み切ったようだ。

 再発防止策が今後、検討されるだろうが、私の気づいたことを一つだけ記しておきたい。
(画像は、上が二週間前のキリスト新聞、下が先週のクリスチャン新聞)

危険な年代か?
 一般の新聞で、こうした類の不祥事を働いた犯人の年代を見ると、驚くことに、だいたいは50歳代である。警察官、学校教師、大学教師。。。(ほかもあるかもしれないが、公職であるために、新聞で取り上げられるのかも知れない)。そして、被害を受けるのは、年若い、弱い立場にある人たち。

 たぶん今回の加害者B牧師は、60歳前後だろう。しかも、何年も続いていたとすると、やはり50歳代から始まったことになる。関西であった聖神中央教会で性的加害を続けてきた牧師も、確か逮捕されたのは60歳前後だ。
 若さのまっただ中で意気盛んな20~30代の話ではない。人生のほとんどを経験し、分別もある年代が実行に及ぶのである。

 50代とは、中年期後半で、子供が自分の元から離れ、妻との関係の新しいステージを築かねばならない時期と考えられる。限度はあるとはいえ、お金もある程度自由になり、それまで積み上げて来た実績の上の自由裁量が許され、周りから一目を置かれる年代となる。そこで、ブレーキが緩んで、一種の全能観の幻想に捕まるのではないか。私も50代。お金も中身もないところがB牧師と違うが、自分を見つめる厳しい目を持たねばならない。

 また、迫り来る老年、死をも視界に入ってくる状況だ。そこで、いままで適えられることなく奥深く抑えていた欲望がはけぐちを求めて、弱い立場の人を餌食にするのかもしれない。脳の加齢による変化もあるかもしれない。しかも、その手口は巧妙。

 旧約聖書に出てくるダビデ。かつて清新さにあふれた好青年が、年代をへて王位についたのち、地位を利用して人妻のバテシバと不倫関係をもったのも、中年期だろう。(何歳のころか、知っている人は教えてください。)

福音主義神学の限界か?
 福音主義神学の限界もあるのではないか。成功、生産、発展には寄与するものの、外から襲ってくる人生の闇、暗夜、危機に対し、これまでの福音主義神学は、何の助けも見いだされないと、ある識者は指摘した。

 限界はそればかりではないだろう。自分の内にある暗闇を見つめ、自分を理解し、方向づけ、人生の行程を最後まで貫徹することを支える神学、霊性が見いだしがたいこと。また人間理解の浅さがあるのではないか。
 指導者の逸脱行為、加害行為は、今に限ったことではなく、過去、日本の近代史にあったことはうわさで聞く。(信徒はなおさらあるでしょうが。)

 まずは加害者からの謝罪、賠償、傷を負った被害者の救援が優先されるべきだろう。そして、関係指導者、専門家による問題の深い追求、研究、これからの貢献、が期待される。それは、日本のキリスト教会の弱さをも含めた、豊かで健全な質的成長に大きく寄与すると思われる。

 そして、人生の年代のステージに合わせた心的、精神的、肉体的、霊的満たしとは何か、渇きとは何か、また、どうそれを扱ったらよいかも、スピリチュアルな課題として浮上してくる。


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今度はカルト化問題(AERA)

 2008-07-23
 本ブログは、事件やスキャンダル、カルト化問題を追及する目的で設けているのではありませんが、まったく触れないというのも変なので、少し話題に。

 四月にAERAの記事についての所感を掲載しました。
「霊的指導者の性的犯罪」(link) 
 今週号にまた、第二弾とも言える、「キリスト教会のカルト化」の記事(4頁)が載りました。ほんとは、目をそむけたい気持ちですが、こうした事実をしっかり見つめなければ未来は危うい、とも思います。

 ここで、真の教会のあり方、リーダーシップのあり方を、再確認するのもいいのではないでしょうか。

 記事の小見出しは、

「牧師絶対の小王国」
「病気は悪霊の仕業」
「牧師への批判は不信仰」
「信頼につけこむ牧師」
「カウンセラー装う牧師」
 ・・・・・・・・
 ・・・・・・・・
など、痛烈です。これらは、ほとんどの正統的なキリスト教会にあてはまらず、ごく一部の例外的な教会のことなのですが、被害者が出ている自称キリスト教会があることは事実。浜松、沖縄、北海道のある教会が取り上げられています。

「カルト」とまでは断定できなくても、「カルト化」したとして、その不正、犯罪性が指摘されています。

記事の一部の引用
 以下、私にとって心に留まった言葉を記事からピックアップして少しだけ引用。( )内は私のコメント。

記者「単立でも健全な教会は多いし(略)、教団所属でも深刻な人権侵害が起きているところもある。ただ、単立教会はチェックの目が入りにくいぶん、牧師に問題行動があるとエスカレートしやすい」
(単立は牧師中心になりやすい傾向があると言われているので、キリスト中心、聖書中心にしていくことが、当たり前だけど重要。教会政治は監督制か、長老制か、会衆制かを最初から明確するのも大切では。)

カルト化教会の牧師「『病気は悪霊の仕業だ』『祈れば必ず治る』『病院に行ったり、薬を使ったりするのは神に対する裏切りだ』『(病気が治らないのは)君の不信仰だよ。もっと祈り、もっと悔い改めなさい』」
(極端に聖書の教えをねじ曲げている。)

記者「教会の門を初めてくぐるとき、聖書の存在は知っていても、中身についての知識をもたない人は少なくない。(略)彼らにとっては、最初の牧師の口から語られる教えが真理となりがちだ。牧師は他の教会関係者との交流を禁じ、読書を制限するなどし、信者を極度の視野狭窄(しやきょうさく)に陥らせる。教会関連の仕事(奉仕)を次々と命じ、考える時間を与えない場合も多い」
(自分の教会だけが最高で、他はだめ、他とつきなうな、つきあっているあなたは信用できないという雰囲気の教会(排他主義)は危険度が高い。ただ、自分が所属する教会への協力をあまりに怠るのも考えもの。)

記者「信徒は、牧師に批判的な考えをもつことは不信仰だと考え、理不尽なことが身に降りかかっても、非は自分にあると思う」
「信仰が足りないという牧師の言葉を素直に受け入れ、牧師への忠誠を一層強めていく」
(改善への提案をしたり、牧師、指導者へのたまの意見をしたとき、「批判だ」と言い、従順のみを強調し、押さえつけるところは要注意)

識者の言葉(社会心理学者 西田准教授)「『自己否定せよ』『自分を神に捧げよ』と指示し、さもないと『救われない』『幸せになれない』と説く」
「宗教は本来、心を解放するものなのに、こうしろ、あれはいけない、と逆に縛り付つける。解放するように見せかけながら縛っていくのが、カルトの本質だ」
(最初は、救いは行いではないと伝道し、信じてからは、信仰の深まりよりは、行い(奉仕)で信徒を評価しようとする指導者に要注意。)

識者の言葉(北海道大学大学院教授 櫻井教授)「まず、牧師の言うことであってもむやみに従わず、自分の頭で考え、納得したうえで信仰をもつこと。(略)一番しっくり行くところ(教会)を選ぶのも賢明だ。そうした行動を不信仰と呼ぶ牧師がいたら、その教会はやめたほうがいい」
(励ますつもりかもしれないが、「信仰が弱い!」「不信仰だ!」と言って、信徒を叱責する勇ましい指導者が、少し昔まで、日本にわりといたように思う。信仰も神から与えられるものなのにね。
 こうした叱責は、「恵み」についての理解が一般的に難しいことによるが、逆に日本的な自力本願の精神文化にしっくりくるから、やっかい。)

 ほとんどの正統的なキリスト教会は健全で、問題は少ないですし、牧師さんたちも信頼できる人がほとんどです。だから、日本で信徒が少ないままで留まっているし、教会も経済的に貧しいとも言える、というところが悲しい。

聖書に帰ろう
 こう見てくると、改めて教えられるのは、健全な教会に所属していたとしても、自分で聖書をひもとき、自分の目で聖書を学び、ふだんから読み続けることの大切さです。

 そのために、牧師や経験ある指導者からアドバイスを受けたり、小グループで学んだり、よい説教を聞いたり、また、聖書をまんべんなく読んだり、不明な箇所は質問したりすることでしょう。

 救いや、教会についてなどの理解や教理は、「ローマ書」「ガラテヤ書」「エペソ書」等の教えをよく知って、教会と自分自身のあり方を点検してみることが肝要だと思います。

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