『シンプリー・ジーザス(SJ)』第2章ー第3章資料集

 2017-07-10
 第1章に続いて、読書のための資料として、いくつかキーワードの解説を掲載します。SJを読んでいないとほとんと役に立ちません。
 本記事の読者対象は、高校生から大学生を想定。(黒文字はブログ主やネット上からの引用。青文字は『シンプリー・ジーザス』からの引用)

第2章 三つの難題

P.32 メリアム・ウェブスター辞典
 ライトは、「神」の基本的な定義をこの辞書から引いています。ウェブスター辞典は、19世紀前半に初めて編纂された米国の英語辞典。その後、改訂を重ね、今日まで英語圏における最も普及した英語辞典の代名詞と言われています。ウェブスター辞典と言うと一般に大辞典を指すそうですが、簡易版、中型、小型など様々な形式の同じ名を冠した辞書が出されています。メリアムとは発行している出版社名。正式名はメリアム・ウェブスター社。ライトが引いたのも、日本で言えば「広辞苑にはこうあります」という感じでしょう。
   07ae37e1.jpg

 2章はこのくらいですかね。


第3章 パーフェクトストーム

P38 それまでいくつもの「パーフェクトストーム」があったのだが、今度の場合はその名を冠した本と映画によって広く知られることになった。

映画『パーフェクトストーム』(実話を元にして製作。公開2000年)


ウィキペディアによると、「複数の厄災が同時に起こって破滅的な事態に至ることを意味し、
リーマン・ショックなどにも比喩的に使われる」だそうです。
(以下、ストーリー)1991年9月、マサチューセッツ州グロスターに一艘のメカジキ漁船 - アンドレア・ゲイル号が漁に出る。遠方の漁場へ足を伸ばし期待通りの大収穫を収めた。この時、「ノーイースターと呼ばれる嵐に加えて「ハリケーンも接近して、急ぎ帰路に就いたが、ノーイースターとハリケーンが融合し、巨大な嵐“パーフェクト・ストーム”(1991 Halloween Nor'easter)が発生した。


P39  懐疑主義と保守主義

懐疑主義(米: skepticism、英: scepticism)ウィキベディアより抜粋、以下Wikiとする。
基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆる独断を排除しようとする主義。懐疑主義ないし懐疑論は、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、不可知論と結びつき、神や存在の確かさをも疑うようになるとされる。しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったため、肯定的に語られることが多い。

保守主義(conservatism)または保守(conservative)
伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、それらを保存・維持するために、急激な改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、団体などを指す。政治などにおける保守主義(保守派)を右派ともいう。各集団や勢力の内部で、更に相対的に「右」「左」を示す場合にも使用されている。


P41 「新・無神論者」

リチャード・ドーキンスやクリストファー・ヒッチンズ、サム・アトキンスのような「新・無神論者」たちの本が、どうしてそんなに売れるのか

ドーキンスは本書で、ロバート・パーシングの発言「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。 多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」を引用。

ジャーナリスト、作家。学生のころから反戦、反人種差別運動等数多くの政治運動に参加。オックスフォード大卒。『宣教師の立場』『トマス・ペインの『人間の権利』』等多数の著書を著す。『宣教師の立場』では、マザー・テレサを厳しく批判。リチャード・ドーキンスが著作に彼を引用。(Wiki より)

images.jpg

『宣教師の立場』←リンク有り


サム・アトキンス
(訳文にある名前)
すみませんが、ここは原書の英国版と米国版で異なる人名が記してある可能性があります。たぶん、ピーター・アトキンスサム・ハリスがごっちゃになっているかもしれません。いまになって気づきすみません。

Peter_Atkins_Paris_2007.jpg 
オックスフォード大学リンカーン・カレッジの化学教授。化学系教科書の多作家として知られる。また、通俗科学の作家として、Molecules and Galileo's Finger: The Ten Great Ideas of Science? などを書いた。無神論者であり、ヒューマニズムや無神論、及び科学と宗教の不和合性の問題について執筆、講演している。(Wikiより)



Sam_Harris_2016-1.jpg 

(Sam Harris、1967〜)米国の著述家、認知神経科科学の博士。哲学博士。スタンフォード大学に入学し、MDMA(薬物)が精神に与える影響について研究。大学在学中にインドへ渡り、インドやネパールで多くのヒンドゥー教や仏教の宗教者たちから教えを受ける。主にアブラハムの宗教に対して批判的に論じた最初の著書『The End of Faith(信仰の終焉)』を2004年刊行、全米でベストセラー。『ニューヨークタイムズ』のベストセラーリストに33週間留まった。


P49 歴史の複雑さという問題


さすが日本語ウィキペディアにも情報が豊富です。60代以降の人には記憶に鮮明でしょう。
ケネディについてはプライベート生活を含め、いろんなことが記録され、詳細に分かっています。彼を理想化していたところがある私も、いま資料を読んで知らないことが多く出てきて、驚くことも多く、大変に興味深いです。
JFKBerlinSpeech.jpg 


カテゴリ :N.T.ライトの神学思想 トラックバック(-) コメント(0)
タグ :

紙上対談:N・T・ライト著『シンプリー・ジーザス』の訳者に聞く

 2017-06-27
 (2分30秒からセントアンドリュースの街を海岸から見ることができます。ゴルフ場?も少し)

ゲスト:山口希生(訳者)
インタビュー:小渕春夫(担当編集者)


発行後三ヶ月が経って

——『シンプリー・ジーザス』の発売後、三ヶ月たちました。翻訳お疲れ様でした。出版の経緯は「訳者あとがき」に書いてありますが、いまのお気持ちはいかがですか?

山口:読んでくださった方々から直接声を伺うのがいちばんうれしいです。特に今回は、私が伝道師をしている中野教会のたくさんの方々が読んでくださり、教会内で小さな読書会も開かれています。他の教会でも読書会を立ち上げたというお話しも聞きました。生の感想を聞けるのは本当に感謝なことです。

——本を通して、よい対話が生まれて聖書理解が深まるといいですね。さて、読み終わった人はかなりいると思います。いままで耳にした範囲での反響はどうでしょう。

山口:そうですね、読みやすいと思って読み進めると、だんだん難しくなっていった、という感想が多かったように思います。たしかに本書は後半になればなるほど中身が濃くなっていく本ですからね。キリスト教世界観について、これまで抱いてきたものが「ひっくりかえされた」「ショックを受けた」という方もおられました。

——ほう、そうですか。私もいろんな意味で従来の考え方の再検討を迫られるものがありましたし、創世記から黙示録に至る広がりのある理解につながるのが魅力的です。  
 期せずして同じ著者による『使徒パウロは何を語ったのか』(岩上敬人訳)が他社から同時発売になりました。「クリスチャン新聞」に訳者同士で互いの書評を書くという珍しいことも起こりました。両方とも一般読者向けに書いたとライト氏は言っていますが、なかなかそうは簡単とは言い切れないと思います。

山口:そうですね、岩上先生の訳された『使徒パウロは何を語ったのか』は学術書というべき内容を備えています。パウロ神学の研究は、新約聖書学の中でも最も盛んに議論されている分野ですので、同書を深く味わうには、その背景についてガイドというか、説明をしてくださる方がおられると良いと思います。勉強会や読書会を開いて読むのがよいのではないでしょうか。

——一般の読者が本書全体から読者は何を読みとって欲しいですか?

山口:キリスト教についてあまり詳しくないという方には、簡単でもシンプルでもない本だと思います。むしろ、学生時代にキリスト教系の学校に通って、授業などでキリスト教に初めて触れたけれども疑問がたくさん残ったというような方々には面白いかもしれないですね。

——しばらく前、関西で行われた神学会に山口さんが招かれ、神学生や関心の高い教会関係者が集まり、講演をなさいました。熱心な質疑応答もなされたようです。そのときのみなさんのライトへの関心、反応はいかがでしたか?

山口:ライト先生の話はまったくしませんでした(笑)。月刊誌「舟の右側」(2017年6月号)に概要が乗りましたが、新約聖書を理解する背景となるユダヤ黙示思想の視点から、パウロの書簡にある罪の支配や贖罪理解について話させてもらいました。


本書の構成と主張

——タイトルの『シンプリー・ジーザス』は、決めるの何度も私とやり合いましたね(笑)。これで行こうという確信は山口さんは強く持たれたようです。

山口:「シンプリー」という言葉は日本語にぴったりとくる訳語がありません。以前イギリスに「シンプリー・レッド」というバンドがありましたが、「シンプリー」という語感はイギリス人だけでなく、日本の若い方にも抵抗のないものだと思います。若い方々にも読んでほしいという願いも込めて、そのままのタイトルにしました。

——ライトは本書の構成として、三つの時代思想が吹き荒れるという舞台設定をして、それを「パーフェクト・ストーム」と名付けました。そのただ中に登場したのが、待望のメシア、イエスであるという、非常に巧みな手法で書いています。さすがシェイクスピアやC・S・ルイスを生み出した国の人ですね。そのときの迫真のドラマが今日によみがえる感じがします。こうした文学的手法は彼の特徴の一つでしょうか?

山口:ライト先生の本にはよく「ロード・オブ・ザ・リングス」の引用なんかも出てきます。そういう「ポップ」な感じを大切にしているのではないですか。また、文学だけでなく、ベートーヴェン等の音楽家もよく登場します。やはり彼は英国の偉大なる教養人の一人ですね。

——20世紀が生んだ神学者への鋭い反論が要所要素に含まれているらしいですが、分かる人には面白いでしょうね。尊敬しつつ、批判すべきところは批判しています。

山口:そうですね、特にアルベルト・シュヴァイツァーを意識しているのではないでしょうか。シュヴァイツァーは一流の聖書学者ですが、学界だけでなく一般のキリスト教界にも大変な影響を及ぼしました。その影響力の広がりと言う意味では、ライトは当時のシュヴァイツァーに匹敵する存在だと思います。

——今後の日本のキリスト教会が、ライトを含め世界の神学の潮流を学ぶ上で、どんな点に気をつけるべきか、どんな態度が必要になってくると思いますか?

山口:ライトはあくまで聖書学者です。聖書が何を語っているのか、それを探求し、広い世界に向かって伝えることが自分の使命だと考えていると思います。ですから、「ライトの神学」とか、だれだれの神学ということではなく、聖書が語っていることを理解するための一つの助けとして読まれるとよいと思います。


セントアンドリュース大学のこと

——ライト先生のもとで山口さんが学ばれたセントアンドリユース大学がある場所は、有名なゴルフ大会があるということしか私は知りません。数年すごされたそうですが、どんな街でしょう。エディンバラより北で寒そうですね。

山口:セントアンドリュースは本当に天国のような場所です、天気を除いて(笑)
セントアンドリュースは、スコットランドの宗教的な聖地でした。かつては大主教座がありましたが、宗教改革で大聖堂は破壊され、今は廃虚となっています。ですからスコットランドの宗教改革の中心地ともなりました。また、1413年にスコットランド初の大学が創立されて以来、学問の中心地でもありました。さらにはゴルフ発祥の地であり、ゴルフの聖地とも呼ばれています。小さな街ですが、古い町並みが保存され、夜など中世に迷い込んだような気分になります。「炎のランナー」で有名になったビーチも素晴らしいです。

——おお、あの冒頭の海岸を走るシーンはセントアンドリュースの海岸ですか! 私の好き映画です。さて、英国の新聞「ガーディアン」の最近の評価によると、神学部の質はでイギリスでトップのようです。神学部生の人数はどの程度で、外国人留学学生も多いのでしょうか?

山口:大学の神学部、セントメアリーズ・カレッジは英国の神学部ランキングではどの新聞でも常にトップ3に入っています。ライトだけではなく、有名な教授を何名も抱えていますからね。ちなみにイギリスでは神学部は尊重されています。私が渡英した2008年では、オックスフォード大学の入学生のAレベルのスコアでは(日本でいうセンター試験のようなもの)、法学部より神学部の方が上でした。日本では考えられませんが。大学全体では留学生が4割近く、非常に国際的です。ただ、神学部の博士課程の学生はアメリカ出身者が多過ぎて、それが問題になっています。

——ライトさんは、どのような人柄ですか?

山口:おおらかで、優しいですね。面倒見がとてもよく、信仰者としても心から尊敬できる方です。

——神学以外に、ライトさんから何か学んだことはありました。

山口:ライティングはコミュニケーションだ、ということを叩きこまれました。とにかく人が理解できるような文章を書こうと。これは学術論文だけではなく、説教や翻訳など、あらゆる面で役に立っています。

——そうですか。それはライトさんが日頃、心がけていることでもあるのでしょうね。
 さて、6月から月一回、山口さんを迎えて『シンプリー・ジーザス』の読書会も始まりました。参加者もとても楽しみにしています。
 今日はお忙しいなか、お時間をとってくださり大変ありがとうございました。


カテゴリ :N.T.ライトの神学思想 トラックバック(-) コメント(0)
タグ :

『シンプリー・ジーザス』第1章資料集

 2017-06-18

8148d654a3b1d9853a1cba6f5deefbd3.jpg

(青文字は、『シンプリー・ジーザス』からの引用、茶色は他の資料からの引用。黒の文字はブログ主の記述です。)

イエスのエルサレム入城

  いよいよ第一章が始まります。冒頭は、印象的なイエスのエルサレム入場から始まります。このシーンは、さまざまな宗教画家が描いてきました。上は、(スクロヴェーニ教会の壁画。ジョット作)

 次のリンクの写真が素晴らしい。→イタリア、スクロヴェーニ教会(1303-1305作)

第1章 P.17
イエスがやって来るのに合わせて、人々は自分たちの衣服を路上に敷いて彼を出迎えた。イエスがオリーブ山の麓に下ってくると、弟子たちの一群は声のかぎりに神を誉めたたえた(ルカ19・36〜37)。彼が近づいてくるにつれ群衆は、ますます熱狂していった。これこそ彼らが待ち望んでいた瞬間だった。人々は古くから愛誦されてきたあらゆる歌を口ずさみ、喜び祝った。とうとう彼らの夢が叶う時がきたのだ。


 映画にもなっています。このとおりかわかりませんが、聖書の記述にそっています。



しかし、ライトは言います。

 イエスは彼らが期待していたような王ではなかった。(略)イエスはロバに乗り、そして泣いていた。潰えつつある人々の夢のために涙を流し、自分の支持者たちの魂をも貫く剣のために泣いた。人々が待ち望んだ到来しない王国のために、また本当に到来していた王国のために、彼は泣いたのだ。

 死の数日前のイエスのエルサレム入城は、福音書の中で最もよく知られた情景の一つである。しかし、ここでいったい何が起こっていたのだろう? イエスは何をしようとしていたのか?

user6997_pic376747_1378364559.jpg  user6997_pic376748_1378364559.jpg 

アウグスティナ美術館蔵(右の画層はクリックで拡大可)

この箇所で、思い出したのは、ナウエン著『明日への道』に出てくる美しい文章です。(以下抜粋)


「フライブルク(ドイツ)の、アウグスティナ美術館にある『子ロバに乗るキリスト』は、私の知る限り、もっとも感動的なキリスト像の一つだと思う。(略)十四世紀に作られたこの彫刻は、棕櫚の日曜日に行われた行進で、台車に乗せて引くために作られたのだ。

 額の高い、キリストの細長い顔、心の内を見つめる目、長い髪、二つに分けられた少しの顎髭。これらは、キリストの苦しみの神秘を表わし、私の心を深く捕らえて離さない。イエスは、「ホザナ!」と歓呼の叫びを挙げ、枝を切って道に敷く人々に囲まれてエルサレムに入場しながらも(マタイ21・8)、彼自身はまったく別のことに意識を集中しているように見える。

 彼は熱狂する群衆を見ていない。手も振らない。そこにあるすべての音や動きを超えて、これから自分の身に起こることを見ている。それは、裏切り、拷問、十字架、死という苦悩に満ちた旅である。焦点の定まらない目は、周りの誰もが見ることのできないものを見ている。長い額は、人間の理解を超えたこれから起こる出来事を知っていることを表わしている。

 そこには暗さがあるが、同時に受容の平安もある。移り気な人間の心に対する洞察があり、同時に大きな憐れみが溢れている。これから味わう言語に絶する大きな苦痛を知りながら、神の御心を行なうという強い決心がある。そのすべてに加えて、愛がある。(ヘンリ・ナウエン『明日への道』 P.202)


『ジーザス・クライスト・スーパースター』
 P18に入るとミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』(70年代初期)を聞いたことが出てきます。いまの若者はまったく知らないでしょうが、これは50歳代以上の人はだいだいい知っているはず。日本でも劇団四季が日本版を上演し話題になりました。いまはありませんが、中野サンプラザホールのこけらおとしで上演されました。当時新人で、いまは有名な俳優として、鹿賀丈史、滝田栄、もんたよりのり。


 ブログ「JesusChristSuperstarファンの日記」を参考にさせていただきました。詳しいことを知りたい方は、あらすじ 最後の晩餐のシーン)のリンクをご覧ください。


P.19 
 結婚したばかりの私と妻はアパートの一階に越して、そこで『スーパースター』を聴いた。アンドリュー・ロイド・ウェバー〔『エビータ』『キャッツ』『オペラ座の怪人』等の英国の作曲家〕は、当時はまだ鼻息の荒い若者で、一代貴族には叙爵されていなかった。台本を書いたティム・ライスは、本物の能力と深さを示した詩を書き続けていた。ある人々は『スーパースター』について懸念を持つだろう。それはシニカルな作品ではないか、それはあらゆる種類の疑念を引き起こすのではないか、と。私はそういうふうにはこのアルバムを聴かなかった。






以下の映像は、2000年に作られた現代版の冒頭。この冒頭と最後の晩餐の終盤に、ユダによって以下の歌が歌われます。このミュージカルの中心は、イエスとイエスを裏切るユダの葛藤です。「あなたは本当は誰なのだ?!」


俺はあなたを見るたびに疑問がわくんだよ。
どうして手に余るようなことをしでかしたんだい。
計画的にすすめていれば、もうちょっとうまくやれたんじゃないのかい。
あなたを見るたびに私は理解に苦しんできた。
あなたの手には負えないような大きなことにどうして手をだしたのか。

よく考えて行動したなら、こんなことにはならなかったはずだ。


ジーザス・クライストは、スーパースター。

 あなたは本当は誰なのか? 何のために苦しんだのか?
 聖書に書いてあるとおりの人なのか?




IMG33.jpg IMG_3794.jpgIMG_3795.jpg

 70年代に発表されたアルバム(上左。レーザディスク盤。ライトが聞いたアルバムと同じジャケットかは不明。)背の低い人が70年代の作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバー(歌手サラ・ブライトマンとも一度結婚している)、背の高い人が脚本家ティム・ライス。その過去、そして現在の写真。

 『キャッツ』『オペラ座の怪人』(作詞はライスではない)は、もうよく知られていますね。『スーパースター』で二人は世界的な名声を得て、その後のめざましい活動が始まりました。


現代に影響を与えた三人の知的巨人
ライトはこう言います。

P.21
 この問いはとんでもなく重要だ。その問いとは、イエスとは実際に誰だったのかという問いだ。彼は何をなして、何を語り、それは何を意味したのか? これは成熟したキリスト教信仰が取り組まねばならない問いである。


そこで、現代の思想に影響を与えた有名な3人を引いてきます。

Sigmund_Freud_LIFE.jpg










フロイトが言うように、こうした感覚は私たちの心の奥底の願いが投影されたものにすぎないのだろうか?





Karl_Marx.jpg







マルクスが言うように、キリスト教は飢えた大衆を黙らせるための方便にすぎないのだろうか?







Nietzsche1882.jpg




 

ニーチェが言うように、イエスは軟弱な宗教を教え、人類から活力を奪ってしまったのだろうか? 






(画像:Wikipediaより)


これら三人は、いまや私たちの文化の中で名誉ある地位を占める存在となっている。 


現代の無神論者の主張

P.21 
 さらには現代の辛辣な無神論者たちの主張、つまり神そのものは幻想で、キリスト教はおびただしい誤謬の上に成り立つまったくの時代遅れな代物で、あなたの健康を損ねさせ、すでに徹底的に論破されてしまっており、社会にとっても有害で、しかも愚かなほど首尾一貫していない、という彼らの主張は正しいのだろうか?  ライスやロイド・ウェバーからのものであれ、あるいはリチャード・ドーキンス〔進化生物学者・動物行動学者〕や他の人物からのものであれ、こうした問いに直面させられたクリスチャンたちには二つの選択肢がある。 ・・・

71UuTmB1vL.jpg

 ドーキンスの本は人気のようで、日本でも10冊以上が翻訳されています。いちばん有名なのは『利己的な遺伝子』。その他、無神論、キリスト教排斥の著作も。

 ライトと同じイギリス人の無神論の論客として大変有名。同じオックフフォード大卒の先輩が、「もはや宗教はいらない、神は必要ない。妄想だ」と盛んに主張しています。ライトはどう反証していくでしょうか?

リチャード・ドーキンス 1941年生まれ。動物行動研究グループのリーダー。オックスフォード大の“科学的精神普及のための寄付講座”の初代教授。王立協会フェロー。『利己的な遺伝子』は世界中でベストセラー。ショッキングなタイトルの本は以下です。

51gsJLTkGpL.jpg 
(BOOKデータベースより)人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか? 物事は、宗教が絡むとフリーパスになることがままあるが、なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか?

 「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば現在のアメリカ社会のあり方は、おかしくはないのか…『利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に携わっている著者は、かねてから宗教への違和感を公言していたが、9・11の「テロ」の悲劇をきっかけに、このテーマについて1冊本を書かずにはいられなくなった。

「もう宗教はいいじゃないか」と。著者は科学者の立場から、あくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い批判を加えていく。宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。神の存在という「仮説」を粉砕するために。―古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインを自称する、進化論を学校で教えることに反対する聖書原理主義勢力の伸張など、非合理をよしとする風潮は根強い。

あえて反迷信、反・非合理主義の立場を貫き通す著者の、畳みかけるような舌鋒が冴える、発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。


ナザレ出身のイエス
136688376361213228774.jpg 
P.27
 ナザレのイエスは歴史上の人物である。これが私たちの出発点となる。イエスはおよそ紀元前四年頃に生まれ(現在の西暦システムを考案した人々はよい仕事をしたが、完璧ではなかった)、パレスチナ北部のナザレという村で育った。彼の母は祭司の家系に連なっていて、ヨハネというがいた。そのヨハネは普通の人生を送っていれば、祭司となるべき人物だった。(地図『地球の歩き方』より)
(クリックで拡大)








 本書での試み
ライトは1章の終結部でこう言っています。

P.29
 もしイエスが実在せず、(ある人々が愚かしくも示唆するように)自分たちの新しい運動を正当化するために誰かがねつ造した人物だとしたなら、彼について考える意味はない。しかし、彼が歴史上の人物であるなら、彼が何をなし、それがその当時どのような意味を持っていたかを見いだそうとすることは可能である。私たちは(これから)福音書の内側に分け入っていこうとする。そうすることで、福音書記者たちが語りかけようとしていながら、私たちには見えなくなってしまったイエスを発見することができる。本書の多くの部分はそうした試みである。


カテゴリ :N.T.ライトの神学思想 トラックバック(-) コメント(0)
タグ :

『シンプリー・ジーザス』資料集「はじめに」

 2017-06-16
 ブログ、長いあいだのご無沙汰でした。フェイスブックのほうでエネルギー使ってしまい、ブログまで手が出ませんでした。

 さて、いつまで続くかわかりませんが、 NTライト著『シンプリー・ジーザス』のリンク集を作ってみます。気楽にいきます。
読書の補助としてお役立てください。
41xGzdlg7oL.jpg9784900677289MAIN.jpg  
Simply Jesus(米国2011)『シンプリー・ジーザス』(2017)


「はじめに」リンク集
 まず、ライト教授が教えるセント・アンドリュース大学の風景を見てみましょう。バスからの風景を写してある模様です。1412年創立。日本では室町幕府の足利義満のころ。欧州ではジャンヌ・ダルクが生まれた年。ものすごく古くてびっくりです。中世そのままの建物でしょうか?

 長いので5:40くらいからどうぞ。
日本語による字幕説明のすぐあと、海に近い街の地図が出てきます。ライト教授が教えている「セント・メアリー・カレッジ」は下の部分に標示されています。大学の少し手前の緑の郊外から始まって、街に入ります。やがて大学の風景になると、紹介が2分くらい続きます。大学の外観は、7:50分当たりから10:00までで、かなり長い映像が見られます。後半に卒業式が行われる講堂も出てきます。
 大学の映像が終わると、宗教改革の騒動で破壊されて廃墟になった大聖堂。続いて有名なゴルフ場が出てきます。セント・アンドリュースというと、私はこのゴルフ場の名前しか知りませんでした。




P.5の終わりごろ
 大学の前で、ある車のドライバーが車を止めて、「ここからグラスゴーまでどうやって行けばいいですか?」と質問を受けたとしたらどう説明するか、という場面が出てきます。グラスゴーって? 名前だけは聞いたことありますが、イギリスに詳しくないのでどこか分かりません。

 ということで、以下に地図を作ってみました。こんな感じなのですね。ほぼ一直線。たしかに途中に大きな川があります。(地図をクリックで拡大)

アンドリュースからグラスゴ

P.6 
「二つの本を「シンプル」な内容にまとめるのは比較的簡単ではないか」といううことで言及されている彼の以前の著作。
51SYJmnDO5L.jpg 
「イエスと神の勝利(Jesu and Victory of God)」(1997/08)

51U2i7B2oL.jpg 
「イエスのチャレンジ(Challenge of Jesus)」(2000)


P.8「チェルシー・フラワー・ショー」
「第二部の内容があまりに豊かなので、まるでチェルシー・フラワー・ショーの案内人になった気分」という言葉が出てきます。フラワー・ショー?
 大規模な国際的な花の展覧会、ガーデニング関係の展示があるようです。私はこれも初めて知りました。動画は長いので適当に拾い見をどうぞ。





P.11「(父が三日で読んだ)復活についての膨大な本。700ページもある」

51BSsvDruiL.jpg 

The Resurrection of the Son of God(2003)


カテゴリ :N.T.ライトの神学思想 トラックバック(-) コメント(0)
タグ :

新年対談「N.T.ライト元年を振り返って」(3)

 2016-01-26
話し手:小嶋 崇(聖泉キリスト教会牧師。N.T.ライト・セミナー主催者)
聞き手:小渕春夫(あめんどう)

──ライトは、被造物を含めた大きな全体像のなかで救済論を論じています。それこそが救済論であると。

〈小嶋〉そうです。ですからライトは、そのようにしてこれまでの議論の枠を組み替えてしまうわけです。

──ライトは個人の救いを除外しているのではないが、もっと大きな枠のなかで個人の救いを扱っているのですね。

〈小嶋〉そこに大いに誤解されるところが含まれています。いくつもの重要な大きなテーマが束になって全体を示しているのですが、問題にする人は、そのなかの個々の問題に集中し、それがひっくり返されてしまうのではないかと脅威を感じるのでしょう。福音ということの中身、意味を変えてしまうように見えてしまう。そのへんの扱い方が、なかなか難しいのです。

──救済・救い(サルヴェーション)という言葉を、私たちは個人レベルでこれまでひんぱんに使ってきたので、ライトの枠組み、世界観を理解すること自体がなかなか大変です。

〈小嶋〉そこで世界観レベルで見たとき、ライトは個人や民族については救出(レスキュー)という言葉を使っている。そうしたほうがその本質が見やすくなる。「どこからどこへ行く救いか」というときにわかりやすい。ただしこれまでの義認論は、「この世からあの世への救い」、この地から天(天国)への移動という、ギリシャ的な二元論の枠組みで救出を理解してしまいます。

 そうすると「サルヴェーション(救い)」であろうが、「レスキュー(救出)」であろうが、両方が聖書全体との整合性がなくなってきてしまいます。


多くの人にどれだけ話題になるか

〈小嶋〉この問題の理解は、誰か一人が説明して浸透していくというより、読書会などをへて、「自分はこれまでこう考えてきたけど、こう変わってきた」と、多くの人の証言が集まってくることで変わってくるのではないでしょうか。

 これまでは個人だけで感じていても、「自分は勘違いしているかもしれない」となることがありますが、周りの人たちの何人も「いまはこう考えています」となってくると、「そういうもんですよね。それは私ひとりが思っているのでなく」となり、全体で変わってくると思います。

──こうした神学理解、聖書理解の見直しは、文献を一冊読んだだけでは限りがありますよね。今回の『クリスチャンであるとは』の翻訳で、いくら注意を払い、言葉を選んで文字にしてきたとはいえ。

〈小嶋〉テキストというものを正確に読める人、たくさんのことに気づき、違いの分かる人はけっこういると思います。それは読書だけを通しての理解というより、その人のそれまでの生活体験、聖書理解を通してですね。これまでのいろんな理解、信仰体験を総合し、照合して、確信が深まったり、洞察が深まったりするわけです。

 本だけというより、いろんな生活上の相乗効果で読み取ることだと思います。だから適当に訳してもいいということにもならない。著者の意図を正確に汲みとって文字に再現していかねばなりません。ただ、生活体験、思想が深い人は、共感するレベルが違うので、結構深く感じるところは感じる。

 本のなかの個々の細かいこともありますが、本の持っている全体的な主張に共感できたり、波長が合ったりする。全体的なトーン、方向性に自分の波長が合って理解できる。自分の関心、体験、人生、知識を通して共鳴してしまうものがあるのですね。


これからの期待は

──ライトの本が今後も翻訳出版されてきそうですが、今後の楽しみは何でしょう?

 NOPG上沼対談〈小嶋〉予想が難しいですが、『新約聖書と神の民』がどれだけ読まれか、理解されるかが試金石となるでしょう。その話題が、学者だけでなく一般クリスチャンの口の端にどれだけのぼるかどうかですね。よく知的に理解できたかというより、話題性、インパクトをどれだけそこから得ることができたか。

 もちろん、内容の理解もあります。ただ、それがなかなか難しいです。英語で読んでむずかしかった人が、日本語で読んでどれだけ「ああ、なるほど、そうか」となっていくかどうかですね。

──専門書においても、読んで受け取ったこと、感じたことを言葉にして発信し、それに応答していく流れが生まれて、互いの理解を補い合っていけたらいいでしょうね。

〈小嶋〉『新約聖書と神の民』を読んで、『クリスチャンであるとは』で読んで得たものがつながって、全体として組み上がってくる相乗効果があるといいですね。すると、ある翻訳書で充分表現しきれなかったところや足りないところが、別な本で分かってくるということが起こってくるといいと思います。

 順番としては、『クリスチャンであるとは』が最初でよかったと思います。全体像を見て、次に『新約聖書と神の民』という、がっちりした学究的な専門書に、興味のある人が入っていくといいかなと思います。

──『新約聖書と神の民』は上巻が昨年末に出ましたが、下巻の出版はいつになるでしょうね?

〈小嶋〉下巻は、今年中に出るのではないかといううわさを聞きます。大変なのは今回出版された前半です。翻訳者も大変だったと思います。私たちはたいてい、理解可能な日常レベルの言葉で、日常的に分かる範囲で聖書を読んでいます。

 今回の上巻は、「どうしたら聖書を正確に読むことができるか」という、聖書を読むための下地となる部分ですね。そこまで関心を持っている人にしっかり読んでもらって、それが吸収されて、その吸収した人から多くの人のために、うまく解説してもらえるといいですね。すなわち、聖書が書かれた当時の世界観の問題です。

 紀元1世紀の地平でイエスやパウロを理解するとなると、彼ら自身の世界観に入っていかないと意味が充分にはわかりません。単に新約のこの箇所を読んで、「それをどう理解したらよいか」ということでなく、聖書が書かれた時代のユダヤ人たちが、世界、歴史、自民族の意味を、全体としてどう理解していたかです。その世界観にまで入っていって、ニュアンスを受け止めて読んでいくという作業が求められます。

 繰り返しになりますが、1世紀のユダヤ人たちがそのとき、どういう言語をどのように用いて、この世界や聖書を理解していたか、その世界観を理解したうえで、当時の文書のニュアンスをキャッチする。そういう作業をせずには、1世紀に書かれた新約聖書の文書全体が見えてこない、という問題意識がそこにあると思います。

 そのためにライトは、第二神殿期のユダヤ教文書をしっかり、総合的に理解し、理論的に整備して今回出た本を書いているんです。そういう背景をとらえておくと、かなり専門的な内容の本ですが、より読みやすくなるのではないでしょうか。

──そうですか。それは読むのが楽しみですね。
どうも今日はお時間をとっていただいて、まことにありがとうございました。(了)


カテゴリ :N.T.ライトの神学思想 トラックバック(-) コメント(0)
タグ :
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫ 次ページへ ≫