すぐ書房社主、有賀寿先生が天に召される

 2015-08-27
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 キリスト教出版のよき先輩であり、私にも数々のことを教えてくださった「すぐ書房社主 有賀寿先生」が先日、天に召されたとの報をフェイスブックで知りました。

 最近はめっきりお目にかかることなく、いつかこの日がくるとは予想していましたが、寂しいかぎりです。

 あるグループでの読書会にもしばらく参加させていただきました。そこで私は遅刻常習の劣等生でしたが、初歩的な質問に寛容にお相手してくださいました。
 その博学、見識、質の高い出版社を一人で維持されてきた生涯は、日本の教会に多くのものをもたらしてくださったと思います。

 私は有賀先生の言葉で、キリスト教理解、神学の世界に目が開かれたことが数知れません。その都度、自分の中で視野が広げられたことを思い出します。事務所にもふらっと立ち寄ってくださり、書物をいただいたり、声をかけてくださいました。

 私が出版などまったく考えていなかった何十年も前、バイトで翻訳や編集の仕事くださいました。考えてみれば本人にその意識はなくても、結果として私に手ほどきくださったのだと思います。

 
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 過去、刺激を受けた先生との会話について思い起こしています。

 主のもとで安らかに。やがてまたお目にかかりましょう。

(上はジョン・ストットの名著『信仰入門』。後に『これがキリスト教です』として改訂版。下は『衣替えするキリスト教』。ご本人によるユニークな伝道論を展開した興味深い書。禁教だった江戸時代もキリスト教が密かに浸透していたことを指摘した耳を傾けるべき書。すぐ書房は先生の引退と共に活動停止なのも残念。)
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N.T.ライト新刊書『クリスチャンであるとは』予約を開始

 2015-05-22
 世界的に注目され、日本でも関心が高まったきたイギリスの神学者、N.T.ライトによる邦訳の予約開始しました。
 ある方が本書の発行をもって「N.T.ライト元年」と形容しました。人によっては、「聖書ってこうだったのか!」「クリスチャンてこうだったのか!」と言えるような「驚きの」世界、素晴らしい新鮮な内容で溢れています。ご期待ください。

表1影付



『クリスチャンであるとは』
 ー N・T・ライトによるキリスト教入門
 
 四六版並製(344頁)
 価格: 2,700円 (税込)
 厚み: 20mm







◎極めて強い印象を受けた。じつに新鮮に書かれている。まったく新しいものかのようにキリスト教を紹介している。文句なく素晴らしい。極めて先鋭的。圧倒される。(アントニー・フルー、大学教授、著作家)

◎難解なキリスト教の真理を、新鮮で、活き活きとしたイメージを用いて明らかにし、あらゆる角度から検討し、決して飽きさせない。著者はその才能で抜きん出ている。(『ナショナル・カソリック・レポーター』)

◎現代のキリスト教信仰の意味を説明するのにN.T.ライト以上の人はいない。本書は、キリスト教の真理と活力、そして著者の力量を示した驚くべき証しである。(ウィル・ウィリモン、合同メゾジスト教会主教)



目次
はじめに

第一部 ある声の響き

 第1章 この世界を正しいものに
 第2章 隠れた泉を慕って
 第3章 互いのために造られて
 第4章 この地の美しさのために

第二部 太陽を見つめる 

 第5章 神  
 第6章 イスラエル  
 第7章 イエス──神の王国の到来  
 第8章 イエス──救出と刷新  
 第9章 神のいのちの息  
 第10章 御霊によって生きる

第三部 イメージを反映させる
 
 第11章 礼拝  
 第12章 祈り  
 第13章 神の霊感による書  
 第14章 物語と務め  
 第15章 信じることと属すること  
 第16章 新しい創造、新しい出発

結び──さらなる展開のために 


 ネット書店→ あめんどうブックス

上からご注文いただいた商品は、問題がなければ29日から行います。
書店に並ぶにはそれから数日かかるでしょう。(6月第1週)
Amazonへの出品も半月以上はかかります。
弊社のネット書店をどうぞご活用ください。

【お支払いの仕方】いずれかお選びください。
◎前払い(クレジットカード)
◎後払い(郵便振替)
◎コンビニ支払い(後払い、手数料100円追加)


 ネット書店→ あめんどうブックス
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N.T.ライト『クリスチャンであるとは(Simply Christian)』鋭意制作中。最後の段階。

 2015-04-27
IMG_0432.jpg N.T.ライトによる新刊『クリスチャンであるとは』は、最後の制作の段階にきています。この最後の段階に時間がかかり大変。

 複数の方に試し読みをしていただき、その意見を反映し、さらに校正をかけ。。。。修正もたくさん出ています。おもには日本語での表現についてですが。
 原文は複雑な込み入った文章です。これまで訳者とずいぶん時間を費やして相談してきましたが、中身が明瞭になるほど、細部の検討が出てきます。
 待ちわびている読者の方々に早くお届けしたいですが、慎重さを要する検討が続いています。

 複雑な文章、意味深長さ。神学、歴史、芸術、文化、思想史、他宗教、現代の問題などなど、多彩、多岐にわたる内容に、編集者としても、長距離走が続いて息があがってきています。
 他の人から必要な助けを得ながら、ひとがんばり、もうひとがんばり、と自分に言い聞かせつつ。

 「いつまで続くぬかるみぞ」という感慨も湧いてきますが。。。。。
 もう、ちょい、という声も聴こえてきます。
 もうしばらくお待ちください。
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「牧師夫人」という呼称、その後

 2014-06-20
 前の記事については、多くの反響がありました。いろいろとこの件について考えてきた方がいることも分かりました。
 私はこの点について本に表記するときに迷い、「牧師配偶者」としたことの背景について書きました。

 他の人が牧師の奥さんを指して、「牧師夫人」と尊称することはこれからもあるでしょう。それに反対するものではありません。そして「さん」と呼んでほしい牧師の奥さんもいれば、たとえ「副牧師、伝道師」とかの職位がなくても「夫人と呼ばれて大丈夫、呼んでほしい」という方もいます。
 私としての意見は、自らを「牧師夫人」と紹介したり、印刷物で表記しなくていいのではないかということです。自分を紹介するときは「私の夫(妻)は牧師です。〜と呼んでください」で充分でしょう。

 フェイスブックで前の記事のリンクを投稿したとき、コメントくださった方の中に、「セールスマン夫人」「教師夫人」と呼ぶことはないので、「(名前)さん」とするように気をつけるようになったという方がいました。
 ここからも「〜〜夫人」は、上流階級を指して使う用語の転用であることは明らかではないでしょうか。
 なお、韓国ではこの変の事情は似ていて、職位があろうがなかろうが、牧師の妻は「師母」と記し、口で話しかけるときは、「師母様」だそうです。(牧師は「牧師様」)

 この点についての研究では、すでに知られていますが、日本バプテスト連名が2013年2月に声明を発表しました。その声明の冒頭には、こうあります。

日本バプテスト連盟は、「牧師夫人」という身分・職分は存在しない、と理解する。にもかかわらず連盟の歴史においては、十分な吟味を行わないまま、男性牧師の配偶者を「牧師夫人」と呼び、「牧師夫人」となることを女性の具体的な献身の形とし、さらには、「夫と召命を共有し働く者」として推奨してきた事実がある。その中で、自らの働きを誇りとし、教会形成を支えてきた自負をもつ、牧師の配偶者も少なくない。同時に、牧師としての献身を志しながら「牧師夫人」となることを勧められ、自らの召命が受け入れられない痛みを負った女性たちや、イメージとしての「牧師夫人」像を押しつけられて重荷を負った牧師の配偶者たちも多く存在する。


 すごく、的確に捉えた文書であると思いました。
 ぜひ、この貴重な資料をご欄になってはいかがでしょうか。
 この課題について、これ以上の素晴らしい資料を私はこれまで見たことがありません。
 
「いわゆる牧師夫人に関する見解」

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牧師の妻をどう活字にするか?「牧師夫人」か「牧師配偶者」か?(試論)

 2014-06-10
 近著『牧会相談の実際ーカウンセラーと共に考える』の第四章のブックガイドに25名の方に推薦図書を書いていただきました。

 そのとき、ハタと困ったのは、寄稿くださった牧師夫人のタイトルです。活字でもそう表示してもいいのだろうか?と。
 キリスト教界では、牧師の妻を「牧師夫人」と呼び習わしてきた伝統が長く、とくに私の関係する福音派では、その習慣が強いです。通常の会話において第三者が言うのはいいですが、自分のことを「牧師夫人」と他の人に言う、あるいは活字にするのは正常な日本語でしょうか? これは業界内だけの用法である可能性が高いです。「夫人」は通常、社会的地位、身分の高い婦人を他の人が呼ぶときの尊称ですから。そして、さまざまな立場の人が読む可能性がある本の活字にする場合、そのような自称(タイトル)は適切でしょうか。

牧師夫人は職位か、地位身分か、妻か?
 所属団体によって異なりましょうが、「牧師夫人」とは多くの場合、職位でなく尊称です。そして、牧師と結婚した女性は自動的に「先生」と呼ばれるようになるため(日本では)、周りから、ある働きや存在感が無言で期待されます。他の人とは「身分が異なる」ように見られます。

 さらに複雑にしているのが、多くの所属団体は牧師の妻を「職位、身分」として正式に認めていないのに、「牧師夫人」にふさわしい言動を牧師の妻に期待し、そのための研修も行われてきた歴史があります。

 奇妙なことに、妻が牧師である夫の場合、「牧師夫君」「牧師主人」とは呼びません。「牧師旦那」と呼ぶ人もいるようですが普及するでしょうか。そして牧師の配偶者が男性の場合、女性に求められる役割を期待することはないでしょう。男性ですから、と。会社勤めしているのがほとんどでしょう。

 しかし、職業を持つ女性が牧師と結婚した場合、「牧師夫人」となるために、仕事辞めねばならない場合があるようです。職業をもったままの「牧師夫人」は、受け入れられない気風があるようです。「牧師夫人」の働きは、職業婦人にはできないと思われるからです。ですから職業についたままの妻は(アルバイトもしにくい)、たとえ本人が名乗っても、(良し悪しは別として)信徒は「牧師夫人」と受け止めないでしょう。

 そして「牧師夫人」は通常、教会でのたくさんの仕事が期待されていながら、教会はその労力の対価を払っているとは聞きません。職位ではないからです。

 では、どう理解したらいいのでしょうか。ひとつ考えられることがあります。つまり、「◯◯組」や「相撲部屋」の「おかみさん」のように、その集団の無給の母親的存在を期待されるということです。これは言葉にしたり、条文化したりする必要のないほど「あうんの呼吸」「当たり前」の日本文化です。

牧師の妻に期待されるステレオタイプ
 これは長い間の男性中心文化の影響と思われます。つまり、牧師とは男であって、その妻はつねに教会堂にいて、行事を支え、相談にのり、茶菓を出し、ときに行事の間、子供の世話をし、人がいなければ日曜学校の教師をし、奏楽をし、会堂の掃除もして運営を支える「べき」という根強い思い込みがあると思われます。

 その「牧師夫人(身分)」に同意して、あるいは自分の使命とし、その扱いを周りに求める方はいいでしょう。しかし、そうでない方もいます。結婚したあとに夫が牧師になった場合などが典型です。
 
 日本に、これとそっくりなシステムがあります。仏教のお寺です。結婚相手が寺の住職である場合、妻としての働きが自動的に期待されるのとそっくり同じ。僧侶が既婚女性である寺もあるかもしれませんが例外で、ふつうは住職資格があったとも、跡継ぎで後継者がないかぎり、一般人として暮らすほかないでしょう。
 いまや僧侶と結婚する女性も限定されてきます。ですから結婚の条件に、「新居は寺と別なマンションで」と求める女性がいるようです。寺に住んで、接客やお茶出しをしない、ということですね。そこで夫は寺に住まず、マンションから通勤ことになります。

時代は変化した
 時代は変化し、結婚が多様化しています。福音派では考えられないことですが、牧師の妻が非キリスト教徒である場合も出現しているようです。

 牧師を配偶者を持つ場合、「牧師夫人」「牧師主人」(役割)を受け入れる人もいれば、それを断りたい人もいるでしょう。結婚相手が、たまたま牧師であって、自分は一信徒だと理解する人も増えているでしょう。
 キリスト教の本家の欧米は(信者は激減していますが)、それが普通だと思われます。夫は牧師であっても、自分はただの妻、1会員にすぎないというスタンスです。

 そこで、活字にする場合、何か中立的なタイトルになるだろうかと、あれこれ考えた結果、ある教派グループでは常識となっている「牧師配偶者」という呼称を『牧会相談の実際』では採用しました。これなら結婚相手が男性か女性かに関係ありません。

 日本の主流派キリスト教では、もはやそれが常識で、「牧師夫人」と呼ばれるのを本人が拒否したり、それを女性のタイトルとするのは、かなり前に廃れたようです。
 
 下の本の英語のタイトルは文字どおり『はい、私は牧師の妻です』(ただの妻よ)なのに、日本では意味が変化して『はい、私は牧師夫人』というタイトルになっています。日本のお国事情だからでしょう。(内容が日本語のタイトルと合っているといいですが。)
 
はい、私は牧師夫人はい、私は牧師夫人
リア・マラシガン・ダーウィン 山下 章子

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