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礼拝という修練

 2013-12-02
 ある機関紙に二年前、寄稿したものです。リチャード・フォスター『スピリチュアリティ:成長への道』の章の概要をまとめたものです。
「礼拝」は信仰者の重要事項、私たちは礼拝共同体の民と言われる割には「礼拝とは何か」ということを深く理解することが自分の中でいつの間にか薄れてしまいます。行事に参加することで「義務を果たした」かのように受け止める傾向が私の内にあります。信仰生活の基本としてクリスマスに振り返ってみたいと思いました。
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 R・フォスターは、礼拝を修練の一つとしている。それは、信仰生活の中心であると同時に、神ご自身が求めていることへの応答となる。「父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」(ヨハネ4:23)。特定の時間に、特定の儀式に参加すれば礼拝になるのではない。イエスによって明らかにされた神のご性質を正しく理解し、聖霊に介入していただく必要がある。

 神の前に出ることは、自分の汚れ、罪深さが露わにされることでもあるが、神が私たちにしてくださったことを確認しながら自己吟味し、告白を経て礼拝へと導かれる。礼拝の語源は「ひれ伏す」で、私たちの体、思考、感情、姿勢、動作、言葉、音楽、生活を含めた全存在で捧げるのである。そのような礼拝が実現するとき、関係の回復と癒しが生じ、私たちは謙遜にされて、神を神とする行為となる。

 同じ主にある兄弟姉妹と、同じ主を仰ぎ見てする共同の礼拝は、共にキリストのご人格を体験する空間となる。キリストによって召し出された人々の集まりで捧げる奉仕はすべて、キリストを崇める行為となる。特別な賜物を持つ個人が目立つためではない。主の臨在があるなら、ひとりではなし得ない、皆が一つとなる深い交わりが出現し、聖霊による神の愛が注がれ、満たされる場となる。それが真の礼拝であるとき、私たちの中の恐れは消え、肉の思いは清められ、主の光の中で私たちは変えられる。

 共に集う行事だけでなく、日常生活でも主の臨在に思いを馳せ、神を崇める姿勢を養うことができる。簡単ではないが、日ごとの行い、発する言葉、人との出会い、出来事の中で、主の臨在を意識し、あるいはそれに気づき、主の力によって生活自体を礼拝とする道をたどるのである(ローマ12:1-2)。生活のあらゆる行為を「御霊に従って歩む」(ローマ8:4)ことは修練の大事なプロセスとなる。主から離れたと気づいたときは、その場で立ち返ってリセットし、再スタートすることができる。失敗するはあっても、主の導きとそうでないものを判別しつつ、神の国の住人としての生活を生きた供え物としていきたい。

『風の色』(クリスチャンライフ成長研究会機関紙 2011年12月号掲載)
  参考:R・フォスター『スピリチュアリティ:成長への道』(日本キリスト教団出版局)
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