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対談:『クリスチャンであるとは』発行後、半年たって(3)

 2015-12-21
上沼師へのインビューは今回で最終回です。

話し手:上沼昌雄(訳者。聖書と神学ミニストリー代表。神学博士。在カリフォルニア州)
聞き手:小渕春夫(編集者、あめんどう代表)
日時:2015年12月10日


聖書の無誤性、無謬性というテーマ

---今年の夏、上沼さんがいらしたとき、日本でのもう一人のN.T.ライトの紹介者、
小嶋崇牧師の教会で集まって、小さな祝いのときを持ちましたね。そのとき、
中澤啓介牧師がいらしてました。かつて35年前、聖書の無語性、無謬性について、
論争をし合った仲間だそうですね。

 私はその場にいて、その背景をまったく知らなくて、あとで知って少し驚きました。
N.T.ライトが取りもった再会だったと言えそうです。歴史的瞬間に私は立ち会ったようです。(笑)

 本書のなかには、伝統的理解になじんでいる人に物議をかもしそうなことがいくつか出てきますが、
「無誤、無謬論」もその一つです。そこにひっかかり過ぎると、聖書全体が伝える物語から離れた
果てしない議論になってしまう。否定はしないが、あえてその用語を使用しないとライトは言っています。
いまは上沼先生も、それに同感しているのですか?

〈上沼〉そうです。私がしていた無誤性の議論は、あくまで神学として議論
したつもりだったのですが、それが広く教界内に広がって、それを認めるか認めないかで、
福音主義かそうでないかとう言い方をされるようになっていきました。それを見て、
「明らかに違うところにきてしまった」と思いました。

---それはたしか、1980年前後だったでしょうか。私はまだそういう信仰をもって間もない初心者でして、
先輩が話していた「ムゴ、ムビュウって何?」と、ちんぷんかんぷんでした。
ただその影響下で育ってきたわけです。

〈上沼〉無誤性のこともありますが、救済史のことで村瀬俊夫牧師とも議論しました。
救済史と一般の歴史学がどうかかわるかが曖昧で、むしろ別々なものになってしまうという問題が
ありましたが、いまでも問題はそのまま残っています。
 N.T.ライトは、創造と新創造の間に一般の歴史が入るという言い方しています。
ですから彼の神学は、簡単に救済史と言ってしまうと誤解してしまうと思います。


義認論と和解論の和解

---上沼さんの今回の講演の中で、「義認論と和解論がN.T.ライトの中で和解している」という
面白い言い方がありました。

〈上沼〉
そうです。義認論と和解論というものがありますが、義認論だけを学んでいる人は、
なかなか和解論と調和できないでいます。義認論のほうがどうしても前面に出てきて、
和解論が後退してしまいます。一方、和解論を議論しようとすると、すぐにバルト神学に
移っていくしかありませんでした。これまで、義認論と和解論をどう調和させるのかは、
あまり考えられていないのです。

---では、N.T.ライトはそれをうまくつなげているというわけですか?

〈上沼〉はい、そうです。つながっています。ものの見事につながっていますね。
というのはこれまでの神学では、義認論の対象は人間だけですし、和解論となると、
その対象は万物になります。

---義認論は人間と神との関係だけで閉じられてしまって、そこに万物が入ってこない、
ということですね。

〈上沼〉そうなんです。和解論には万物が入り、そのなかに人間も入っています。
N.T.ライトの場合は、その意味であきらかに和解論を前提に神学のテーマの全部を扱っていることになります。
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---私はそれほど神学知識がないので、よく分からないのですが、
バルトを初め過去の大神学者も調和させることができてなかった、
ということですか?

〈上沼〉そうです。アメリカに移住する前の日本で気づいたことですが、
和解論について議論すると、すぐにバルト神学に行かざるをえないので、
当時の私は「和解論」という言い方はほとんどしませんでした。
でもいまは、バルトは神学シーンで背景に後退しきたために、
言葉にできるようになりました。


神の宣教(ミッション・オブ・ゴッド)という視点

---ということは、義認論、和解論という言葉でなく、新たな言葉が必要とされている
ということでしょうか?

〈上沼〉言うことができるとしたら、N.T.ライトが言うように、
「レスキュー・ミッション」ですよね。

---それは救済論にまとめることができるという意味ですか? つまり、救済論のなかに、
義認論と和解論が吸収されるということでしょうか? すみません、神学知識が弱いので、
見当違いのことを言っていると思いますが。

〈上沼〉いいえ、むしろ神のミッション(宣教)のなかに、
救済とミッションが一緒になっていて、その救済論のなかに、義認論と和解論が一緒になっている
と言えると思えます。
 そう言えるのは、神のミッションの最終目的が新創造であるからです。

---う~ん。そうですか。そして、そこから聖書をどうとらえるか、どう読むか、
どのような権威があるかを見ていくわけですね。

〈上沼〉そうです。N.T.ライトは本書で、天地創造から始まってイスラエルの歴史に入り、
新約ができるまでのことを説明していきますよね。 新約が書かれた紀元1世紀 の人が聖書の権威を
どのように見ていたのかを説明しています。聖書の無誤性とかのアプローチは、ずっと後の20世紀
の人たちによって出てきました。それを聖書に適用することに慎重な姿勢を示しているわけです。

啓蒙主義の呪縛か逃れるという課題

〈上沼〉ですから、その問題を本書で言っている程度でおさめておくことは、
N.T.ライトのすごい知恵だと思いますね。聖書が書かれたとき、人々がどうとらえていたか、
どういう権威を認めていたかを述べているだけです。

---すなわち、過去、福音派が距離をとってきたリベラル神学への態度、
そこへの反動として聖書の権威づけは、リベラル神学と同じ啓蒙主義的、
合理主義的なアプローチであったということですね。
そして、その理解の中に、巧みに反ユダヤ主義も紛れこんでいるという。

〈上沼〉そうです。そういうことですね。そしてその指摘を、たしかに
そうだとして私たちが認めることができるか。それが、今の私たちに問われていると思います。

---そうなると、欧州産のキリスト教神学には、とんでもないものが紛れこんでいるということですよね。
こんなことを言っていいのかな~。(笑)

〈上沼〉そういう歴史をN.T.ライトは全部わかっていて、ヨーロッパ人として
格闘しているのではないでしょうか。彼は、キリスト教なるものが、これからも真に意味あるもの、
命あるものとして存続できるかというテーマを、キリスト教会の衰退が著しい欧州で、
命がけで取り組んでいるのではないでしょうか。

---さまざまな異論はあるにしても、彼がもたらすものは非常に魅力的で、スケールが大きい。
しかも、それを取り入れるのに時間がかかります。私たちは、いまだに啓蒙主義的理解に
捉えられていますから。それを問いつつ、思索を深め、識別し、信仰生活に活かしていく
ことが求められますね。

 今日は、長時間、ありがとうございました。しばらくは疲れをとり、また来日の際には、
いろいろ刺激を与えてくださいますようお願いいたします。(完)

参考:ヨーロッパの啓蒙時代、思想、思想家
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