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新年対談「N.T.ライト元年を振り返って」(2)

 2016-01-22
話し手:小嶋 崇(聖泉キリスト教会牧師。N.T.ライト・セミナー主催者)
聞き手:小渕春夫(あめんどう)


イギリスの新約学のただの援用ではない

41ePMrPjNgL.jpg──ライトの神学上の貢献、彼の神学的主張は、彼のオリジナルではなく先行する学者の研究成果をもってきていると指摘する人もいますね。(画像は『クリスチャンであるとは』の英国版)

〈小嶋〉はい。そういう人がいますね。ライトの神学思想はイギリスの新約聖書学の土台の上に築かれた学識だという意見です。それは正論だと思います。ただ、そればかりではない。そうだと認めると、今度は針が逆に触れ、彼の神学のほとんどが受け売りではないかとなってしまう。学問的業績を認めない極論になってしまいます。

 ライトがあまりに国際的に活躍し、神学者としての存在感を増しているので、やっかみ半分というか、バランスを取りたいというか、ねたみからくる冷やかしもあるかもしれませんね。(笑)

 イギリスの新約学の蓄積の上に立っているのはもちろん正しいですが、だからといって、単に前の学問をリピートしているレベルの問題ではない。統合というか、総合というか、彼のすごい学識や独自の神学的手腕を認めるべきだと思います。それを世界的に著名な神学校、教授陣が高く評価していますし、いまやN.T.ライトの存在は無視できません。

———日本での神学会の動きはどうなんでしょう。

〈小嶋〉藤本満著『聖書信仰』という聖書論の本が、昨年、タイミングよく出ました。聖書批評学の問題に取り組むことが、今後、他の問題に先がけて始まるかもしれませんね。
 この本は、一昨年(2014年)、福音主義神学会で発表したものが元になっています。当時はその後、他の人が大きくとりあげるという印象はなかったですが、その後、聖書信仰についてある種の開眼、これまでの個人によるさまざまな神学的模索が複合したことで、まとまった本ではないでしょうか。


神学会の活性化とインターネットの影響

〈小嶋〉じつは私も福音主義神学会にずっと出席しているのですが、どうも停滞感がありました。何年たっても面白い研究が出てこない。それがインターネットのブログの影響だか知りませんが、私も「こんなんでいいの?」と批判したのも火をつけた一つかもしれません。若手の研究者が動き出したのではないでしょうか。

──みなさん何かのきっかけを求めていたかもしれませんね。どこから手をつけていいか分からなかった。何とかしたくても、まずテーマを決めて招集し、会議し、コンセンサスを得て役割分担して、と、手続きのために延々と時間がかかる。
 でも、インターネットのフラットな場では、教派間のへだてや組織としての手続きを軽々と突破し、関心ある個人のつながりで広がり、情報や意見交換が自由に飛び交う。

〈小嶋〉そうですね。中央からの発想でなく、在野の研究者がインターネットで声を挙げるようになったのも、影響が大きいでしょうね。いままで書けなかったり、書く場所が与えられなかったり、組織のための内向きな発信が多かったのが、個人レベルで外向けに発信できるようになり、そこに他の個人の反応が生まれ、広がる。

 面白いのは、Facebook上に福音主義神学会の部門会の開催情報を知らせるようになったことも影響あると思います。これまで人があまり集まらなかったんです。二年、三年前まで。しかし、最近は集まるようになりました。二年くらい前に御茶の水のホールであったNPPについての研究会は、100名くらい集まりましたね。

 その学会で登場した人も、聴講に参加した人も、結構多くの人たちがFacebookのライト読書会と多少関係ある人でしたね。そこからインターネットを駆使する若手の神学研究者へ広がり、集まるようになったんじゃないかな。

──組織や立場によって分断されていた個人、単独で関心を持っていた個人が、小さな火が集まって大きな炎になるように、一堂に会した感じですね。


NPPとは何か? それは脅威か?

〈小嶋〉テーマも関心を呼びましたよね。これまで神学上のテーマとして、コントロバーシャルなものが演題になることはなかったですから。つまり、外向きなものでなかった。

──演題自体が関心を呼んだのですか?

〈小嶋〉そうですよ。NPPですからね。関西では取り上げていましたが関東ではこれまでなかった。

──NPPと言われても私にはさっぱり分からないのですが。

〈小嶋〉New Perspective on Paulですよ。

──その言葉は知っていますよ。そこに含まれた意味が分からないのです(笑)。最近の福音主義神学会である人がこう発言していました。「すでに30年前くらいから国際的な神学会では議論されているし、いまさら〈New〉ではないだろう。なぜ日本でいまごろ取り上げられるのか」と。
 それは一言で言って義認論のとらえ直しですか?

〈小嶋〉義認論はそのなかの一つに絞られたテーマです。とくに福音派のなかのカルヴァン神学の信奉者に、いちばんひっかかる点ですよね。ただ義認論と言っても、そこには大きな範囲があるので、ある神学に立つ人にとっての中心的な柱なのですが、その大もとを揺さぶるものがあるということです。

──へえ、そんなに大きな影響があるのですね。

〈小嶋〉そうですよ。これまでないくらいの人が集まったってことが、それを示しているでしょう。ただね、脅威を感じるのはわからなくないのですが、問題は、脅威を感じるようなライトの神学の読み方がそうさせているのだと思います。いったん、脅威を感じるような読み方をしてしまうと、そういうふうにしか読めなくなってくるのですね。落ち着いて、公平に冷静に読めなくなってしまうので、反動的に反応してしまうということですね。

──それは「救いとは何か」と関係するのですか?

〈小嶋〉いわゆる組織神学的に言うと救済論ですね。「人はいかに救われるか」「救いとは何か」ということです。宗教改革のなかのカルヴァンの伝統である義認論は、救済論のなかに含まれる最も土台となるものです。


救出(レスキュー)か救済(サルヴェーション)か

──『クリスチャンであるとは』のなかに出てくる「救い」、すなわち創造から新創造にいたる大きな展望の中で、ライトは人間を含めた全被造物が神の意図した創造の目的にそって回復され、正されることを、「救済・救い(サルヴェーション)」と言っています。

 今回の本には、「救い」という言葉はほんの限られた箇所だけ出てきて、他は「救出」となっています。読んだ人がそれを意識できるかは分かりませんが、「救い」を巨大な枠でとらえていることが分かります。

〈小嶋〉そういう概念の「救い」は私たちの意識の底にはあるのですが、もっぱら意識してしまうのは、人についての義認論です。罪人である個人がどう救われるか、どうやって原罪を負った個人の救いが実現するのか、どうすれば神の前で人が義(ただ)しいと認められるかが、いまのもっとも重大な関心の中心になっています。

 そうなると、建前として新天新地の実現を肯定してはいますが、それとあまりつながらないというか、神学的に厳密に議論する対象でなくなっています。
(続く)
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