新年対談「N.T.ライト元年を振り返って」(3)

 2016-01-26
話し手:小嶋 崇(聖泉キリスト教会牧師。N.T.ライト・セミナー主催者)
聞き手:小渕春夫(あめんどう)

──ライトは、被造物を含めた大きな全体像のなかで救済論を論じています。それこそが救済論であると。

〈小嶋〉そうです。ですからライトは、そのようにしてこれまでの議論の枠を組み替えてしまうわけです。

──ライトは個人の救いを除外しているのではないが、もっと大きな枠のなかで個人の救いを扱っているのですね。

〈小嶋〉そこに大いに誤解されるところが含まれています。いくつもの重要な大きなテーマが束になって全体を示しているのですが、問題にする人は、そのなかの個々の問題に集中し、それがひっくり返されてしまうのではないかと脅威を感じるのでしょう。福音ということの中身、意味を変えてしまうように見えてしまう。そのへんの扱い方が、なかなか難しいのです。

──救済・救い(サルヴェーション)という言葉を、私たちは個人レベルでこれまでひんぱんに使ってきたので、ライトの枠組み、世界観を理解すること自体がなかなか大変です。

〈小嶋〉そこで世界観レベルで見たとき、ライトは個人や民族については救出(レスキュー)という言葉を使っている。そうしたほうがその本質が見やすくなる。「どこからどこへ行く救いか」というときにわかりやすい。ただしこれまでの義認論は、「この世からあの世への救い」、この地から天(天国)への移動という、ギリシャ的な二元論の枠組みで救出を理解してしまいます。

 そうすると「サルヴェーション(救い)」であろうが、「レスキュー(救出)」であろうが、両方が聖書全体との整合性がなくなってきてしまいます。


多くの人にどれだけ話題になるか

〈小嶋〉この問題の理解は、誰か一人が説明して浸透していくというより、読書会などをへて、「自分はこれまでこう考えてきたけど、こう変わってきた」と、多くの人の証言が集まってくることで変わってくるのではないでしょうか。

 これまでは個人だけで感じていても、「自分は勘違いしているかもしれない」となることがありますが、周りの人たちの何人も「いまはこう考えています」となってくると、「そういうもんですよね。それは私ひとりが思っているのでなく」となり、全体で変わってくると思います。

──こうした神学理解、聖書理解の見直しは、文献を一冊読んだだけでは限りがありますよね。今回の『クリスチャンであるとは』の翻訳で、いくら注意を払い、言葉を選んで文字にしてきたとはいえ。

〈小嶋〉テキストというものを正確に読める人、たくさんのことに気づき、違いの分かる人はけっこういると思います。それは読書だけを通しての理解というより、その人のそれまでの生活体験、聖書理解を通してですね。これまでのいろんな理解、信仰体験を総合し、照合して、確信が深まったり、洞察が深まったりするわけです。

 本だけというより、いろんな生活上の相乗効果で読み取ることだと思います。だから適当に訳してもいいということにもならない。著者の意図を正確に汲みとって文字に再現していかねばなりません。ただ、生活体験、思想が深い人は、共感するレベルが違うので、結構深く感じるところは感じる。

 本のなかの個々の細かいこともありますが、本の持っている全体的な主張に共感できたり、波長が合ったりする。全体的なトーン、方向性に自分の波長が合って理解できる。自分の関心、体験、人生、知識を通して共鳴してしまうものがあるのですね。


これからの期待は

──ライトの本が今後も翻訳出版されてきそうですが、今後の楽しみは何でしょう?

 NOPG上沼対談〈小嶋〉予想が難しいですが、『新約聖書と神の民』がどれだけ読まれか、理解されるかが試金石となるでしょう。その話題が、学者だけでなく一般クリスチャンの口の端にどれだけのぼるかどうかですね。よく知的に理解できたかというより、話題性、インパクトをどれだけそこから得ることができたか。

 もちろん、内容の理解もあります。ただ、それがなかなか難しいです。英語で読んでむずかしかった人が、日本語で読んでどれだけ「ああ、なるほど、そうか」となっていくかどうかですね。

──専門書においても、読んで受け取ったこと、感じたことを言葉にして発信し、それに応答していく流れが生まれて、互いの理解を補い合っていけたらいいでしょうね。

〈小嶋〉『新約聖書と神の民』を読んで、『クリスチャンであるとは』で読んで得たものがつながって、全体として組み上がってくる相乗効果があるといいですね。すると、ある翻訳書で充分表現しきれなかったところや足りないところが、別な本で分かってくるということが起こってくるといいと思います。

 順番としては、『クリスチャンであるとは』が最初でよかったと思います。全体像を見て、次に『新約聖書と神の民』という、がっちりした学究的な専門書に、興味のある人が入っていくといいかなと思います。

──『新約聖書と神の民』は上巻が昨年末に出ましたが、下巻の出版はいつになるでしょうね?

〈小嶋〉下巻は、今年中に出るのではないかといううわさを聞きます。大変なのは今回出版された前半です。翻訳者も大変だったと思います。私たちはたいてい、理解可能な日常レベルの言葉で、日常的に分かる範囲で聖書を読んでいます。

 今回の上巻は、「どうしたら聖書を正確に読むことができるか」という、聖書を読むための下地となる部分ですね。そこまで関心を持っている人にしっかり読んでもらって、それが吸収されて、その吸収した人から多くの人のために、うまく解説してもらえるといいですね。すなわち、聖書が書かれた当時の世界観の問題です。

 紀元1世紀の地平でイエスやパウロを理解するとなると、彼ら自身の世界観に入っていかないと意味が充分にはわかりません。単に新約のこの箇所を読んで、「それをどう理解したらよいか」ということでなく、聖書が書かれた時代のユダヤ人たちが、世界、歴史、自民族の意味を、全体としてどう理解していたかです。その世界観にまで入っていって、ニュアンスを受け止めて読んでいくという作業が求められます。

 繰り返しになりますが、1世紀のユダヤ人たちがそのとき、どういう言語をどのように用いて、この世界や聖書を理解していたか、その世界観を理解したうえで、当時の文書のニュアンスをキャッチする。そういう作業をせずには、1世紀に書かれた新約聖書の文書全体が見えてこない、という問題意識がそこにあると思います。

 そのためにライトは、第二神殿期のユダヤ教文書をしっかり、総合的に理解し、理論的に整備して今回出た本を書いているんです。そういう背景をとらえておくと、かなり専門的な内容の本ですが、より読みやすくなるのではないでしょうか。

──そうですか。それは読むのが楽しみですね。
どうも今日はお時間をとっていただいて、まことにありがとうございました。(了)


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カテゴリ :N.T.ライトの神学思想 トラックバック(-) コメント(0)
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