『シンプリー・ジーザス』第1章資料集

 2017-06-18

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(青文字は、『シンプリー・ジーザス』からの引用、茶色は他の資料からの引用。黒の文字はブログ主の記述です。)

イエスのエルサレム入城

  いよいよ第一章が始まります。冒頭は、印象的なイエスのエルサレム入場から始まります。このシーンは、さまざまな宗教画家が描いてきました。上は、(スクロヴェーニ教会の壁画。ジョット作)

 次のリンクの写真が素晴らしい。→イタリア、スクロヴェーニ教会(1303-1305作)

第1章 P.17
イエスがやって来るのに合わせて、人々は自分たちの衣服を路上に敷いて彼を出迎えた。イエスがオリーブ山の麓に下ってくると、弟子たちの一群は声のかぎりに神を誉めたたえた(ルカ19・36〜37)。彼が近づいてくるにつれ群衆は、ますます熱狂していった。これこそ彼らが待ち望んでいた瞬間だった。人々は古くから愛誦されてきたあらゆる歌を口ずさみ、喜び祝った。とうとう彼らの夢が叶う時がきたのだ。


 映画にもなっています。このとおりかわかりませんが、聖書の記述にそっています。



しかし、ライトは言います。

 イエスは彼らが期待していたような王ではなかった。(略)イエスはロバに乗り、そして泣いていた。潰えつつある人々の夢のために涙を流し、自分の支持者たちの魂をも貫く剣のために泣いた。人々が待ち望んだ到来しない王国のために、また本当に到来していた王国のために、彼は泣いたのだ。

 死の数日前のイエスのエルサレム入城は、福音書の中で最もよく知られた情景の一つである。しかし、ここでいったい何が起こっていたのだろう? イエスは何をしようとしていたのか?

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アウグスティナ美術館蔵(右の画層はクリックで拡大可)

この箇所で、思い出したのは、ナウエン著『明日への道』に出てくる美しい文章です。(以下抜粋)


「フライブルク(ドイツ)の、アウグスティナ美術館にある『子ロバに乗るキリスト』は、私の知る限り、もっとも感動的なキリスト像の一つだと思う。(略)十四世紀に作られたこの彫刻は、棕櫚の日曜日に行われた行進で、台車に乗せて引くために作られたのだ。

 額の高い、キリストの細長い顔、心の内を見つめる目、長い髪、二つに分けられた少しの顎髭。これらは、キリストの苦しみの神秘を表わし、私の心を深く捕らえて離さない。イエスは、「ホザナ!」と歓呼の叫びを挙げ、枝を切って道に敷く人々に囲まれてエルサレムに入場しながらも(マタイ21・8)、彼自身はまったく別のことに意識を集中しているように見える。

 彼は熱狂する群衆を見ていない。手も振らない。そこにあるすべての音や動きを超えて、これから自分の身に起こることを見ている。それは、裏切り、拷問、十字架、死という苦悩に満ちた旅である。焦点の定まらない目は、周りの誰もが見ることのできないものを見ている。長い額は、人間の理解を超えたこれから起こる出来事を知っていることを表わしている。

 そこには暗さがあるが、同時に受容の平安もある。移り気な人間の心に対する洞察があり、同時に大きな憐れみが溢れている。これから味わう言語に絶する大きな苦痛を知りながら、神の御心を行なうという強い決心がある。そのすべてに加えて、愛がある。(ヘンリ・ナウエン『明日への道』 P.202)


『ジーザス・クライスト・スーパースター』
 P18に入るとミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』(70年代初期)を聞いたことが出てきます。いまの若者はまったく知らないでしょうが、これは50歳代以上の人はだいだいい知っているはず。日本でも劇団四季が日本版を上演し話題になりました。いまはありませんが、中野サンプラザホールのこけらおとしで上演されました。当時新人で、いまは有名な俳優として、鹿賀丈史、滝田栄、もんたよりのり。


 ブログ「JesusChristSuperstarファンの日記」を参考にさせていただきました。詳しいことを知りたい方は、あらすじ 最後の晩餐のシーン)のリンクをご覧ください。


P.19 
 結婚したばかりの私と妻はアパートの一階に越して、そこで『スーパースター』を聴いた。アンドリュー・ロイド・ウェバー〔『エビータ』『キャッツ』『オペラ座の怪人』等の英国の作曲家〕は、当時はまだ鼻息の荒い若者で、一代貴族には叙爵されていなかった。台本を書いたティム・ライスは、本物の能力と深さを示した詩を書き続けていた。ある人々は『スーパースター』について懸念を持つだろう。それはシニカルな作品ではないか、それはあらゆる種類の疑念を引き起こすのではないか、と。私はそういうふうにはこのアルバムを聴かなかった。






以下の映像は、2000年に作られた現代版の冒頭。この冒頭と最後の晩餐の終盤に、ユダによって以下の歌が歌われます。このミュージカルの中心は、イエスとイエスを裏切るユダの葛藤です。「あなたは本当は誰なのだ?!」


俺はあなたを見るたびに疑問がわくんだよ。
どうして手に余るようなことをしでかしたんだい。
計画的にすすめていれば、もうちょっとうまくやれたんじゃないのかい。
あなたを見るたびに私は理解に苦しんできた。
あなたの手には負えないような大きなことにどうして手をだしたのか。

よく考えて行動したなら、こんなことにはならなかったはずだ。


ジーザス・クライストは、スーパースター。

 あなたは本当は誰なのか? 何のために苦しんだのか?
 聖書に書いてあるとおりの人なのか?




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 70年代に発表されたアルバム(上左。レーザディスク盤。ライトが聞いたアルバムと同じジャケットかは不明。)背の低い人が70年代の作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバー(歌手サラ・ブライトマンとも一度結婚している)、背の高い人が脚本家ティム・ライス。その過去、そして現在の写真。

 『キャッツ』『オペラ座の怪人』(作詞はライスではない)は、もうよく知られていますね。『スーパースター』で二人は世界的な名声を得て、その後のめざましい活動が始まりました。


現代に影響を与えた三人の知的巨人
ライトはこう言います。

P.21
 この問いはとんでもなく重要だ。その問いとは、イエスとは実際に誰だったのかという問いだ。彼は何をなして、何を語り、それは何を意味したのか? これは成熟したキリスト教信仰が取り組まねばならない問いである。


そこで、現代の思想に影響を与えた有名な3人を引いてきます。

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フロイトが言うように、こうした感覚は私たちの心の奥底の願いが投影されたものにすぎないのだろうか?





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マルクスが言うように、キリスト教は飢えた大衆を黙らせるための方便にすぎないのだろうか?







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ニーチェが言うように、イエスは軟弱な宗教を教え、人類から活力を奪ってしまったのだろうか? 






(画像:Wikipediaより)


これら三人は、いまや私たちの文化の中で名誉ある地位を占める存在となっている。 


現代の無神論者の主張

P.21 
 さらには現代の辛辣な無神論者たちの主張、つまり神そのものは幻想で、キリスト教はおびただしい誤謬の上に成り立つまったくの時代遅れな代物で、あなたの健康を損ねさせ、すでに徹底的に論破されてしまっており、社会にとっても有害で、しかも愚かなほど首尾一貫していない、という彼らの主張は正しいのだろうか?  ライスやロイド・ウェバーからのものであれ、あるいはリチャード・ドーキンス〔進化生物学者・動物行動学者〕や他の人物からのものであれ、こうした問いに直面させられたクリスチャンたちには二つの選択肢がある。 ・・・

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 ドーキンスの本は人気のようで、日本でも10冊以上が翻訳されています。いちばん有名なのは『利己的な遺伝子』。その他、無神論、キリスト教排斥の著作も。

 ライトと同じイギリス人の無神論の論客として大変有名。同じオックフフォード大卒の先輩が、「もはや宗教はいらない、神は必要ない。妄想だ」と盛んに主張しています。ライトはどう反証していくでしょうか?

リチャード・ドーキンス 1941年生まれ。動物行動研究グループのリーダー。オックスフォード大の“科学的精神普及のための寄付講座”の初代教授。王立協会フェロー。『利己的な遺伝子』は世界中でベストセラー。ショッキングなタイトルの本は以下です。

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(BOOKデータベースより)人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか? 物事は、宗教が絡むとフリーパスになることがままあるが、なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか?

 「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば現在のアメリカ社会のあり方は、おかしくはないのか…『利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に携わっている著者は、かねてから宗教への違和感を公言していたが、9・11の「テロ」の悲劇をきっかけに、このテーマについて1冊本を書かずにはいられなくなった。

「もう宗教はいいじゃないか」と。著者は科学者の立場から、あくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い批判を加えていく。宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。神の存在という「仮説」を粉砕するために。―古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインを自称する、進化論を学校で教えることに反対する聖書原理主義勢力の伸張など、非合理をよしとする風潮は根強い。

あえて反迷信、反・非合理主義の立場を貫き通す著者の、畳みかけるような舌鋒が冴える、発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。


ナザレ出身のイエス
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P.27
 ナザレのイエスは歴史上の人物である。これが私たちの出発点となる。イエスはおよそ紀元前四年頃に生まれ(現在の西暦システムを考案した人々はよい仕事をしたが、完璧ではなかった)、パレスチナ北部のナザレという村で育った。彼の母は祭司の家系に連なっていて、ヨハネというがいた。そのヨハネは普通の人生を送っていれば、祭司となるべき人物だった。(地図『地球の歩き方』より)
(クリックで拡大)








 本書での試み
ライトは1章の終結部でこう言っています。

P.29
 もしイエスが実在せず、(ある人々が愚かしくも示唆するように)自分たちの新しい運動を正当化するために誰かがねつ造した人物だとしたなら、彼について考える意味はない。しかし、彼が歴史上の人物であるなら、彼が何をなし、それがその当時どのような意味を持っていたかを見いだそうとすることは可能である。私たちは(これから)福音書の内側に分け入っていこうとする。そうすることで、福音書記者たちが語りかけようとしていながら、私たちには見えなくなってしまったイエスを発見することができる。本書の多くの部分はそうした試みである。


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カテゴリ :N.T.ライトの神学思想 トラックバック(-) コメント(0)
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