キリスト教への二元論の混入─その4

 2006-03-15
このテーマは今回で最終回。今回も長くなってすみません。本当はもっと短く書きたいです。

(4)善と悪の二元論(世界/宇宙論)
 一元論、二元論という言葉ですが、慣れていない人はやっかいな用語ですね。キリスト者は、唯一の絶対者、創造の神が世界のすべてを創造したがゆえに、存在するすべての物が唯一の神(三位一体の神)から生じたというのが基本的理解です。ですから、一元論になりますよね。
 ところがうっかりしていると、そこに二元論的な思考やイデオロギーが入ってきてしまうことがあるのです。非聖書的な思想が混入し、とんでもない判断をしてしまう恐れがあります。

悪はどこから生じたのか
 この世界を造った神は善であるのに、「なぜこの世に悪が存在するのか」という問いが生じてきます。これはアウグスティヌスはもとより、多くの哲学者、神学者、人類が追求してきた問いです。さらには、「救われたはずのキリスト者の中に、なぜ悪(人格、出来事において)が存在するのか」という問いも関係してきます。

 聖書の世界は、善であったものが堕落した結果、悪が生じたと教えています。悪は、善と対等にあるのでなく、悪は善より下位のものとして存在するというわけです。悪が悪であるという理解できるは、その前提として善を認めているからです。このへんは、C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』でたくみに論じていますね。

 ルイスは、一元論的世界観に立っているのですが、『ナルニア国物語』では、二元論的な世界観をもつ、ギリシャ神話に出てくる空飛ぶ馬、下半身が動物、魔女の存在など、異教的なシンボルを使っているので、「あれれ?」と思います。「ファンタジーだから、まあいいか」ということでしょうか。ルイスの立っているらしい、ネオ・プラトン主義がなせる業でしょうか。(この主義は二元論なのに、ルイスは一元論??? あれれー? → 専門書にあたってください)

二元論的な善悪の理解
 二元論の代表が、世界の初めから善と悪の両者が対等に存在し、果てることない戦闘を永遠に続けているという世界観です。この壮大な宇宙が、善と悪(悪魔、悪霊)との目に見えない永遠の闘いの場である、というわけです。それはギリシャ思想、さらに古くはゾロアスター教の元になっているグノーシス思想に源流があると知られています。

 世界を単純に善と悪にくっきり分ける仕方ですが、ハリウッド映画のアクションものなどが典型ですよね。子どもむけの物語、おとぎ話、マンガのかなりがそうです。それは第一に、分かりやすい。あまり悩まないていられます。「悪人が滅びて、善人が栄える」というのは快感でもあり、ドラマチックです。(映画「ナルニア国物語」は、ちゃんと一元論的に善悪が描かれているのでしょうか。私はまだ見ていません)

 それを政治的に適用すると、「自分たちは神に選ばれた国、しかし、他のある国は悪の帝国」と断じるようなことになってきます。異教徒はすべて嫌悪すべきだという見方も、正統的だと誇っている人たちが陥りがちな点です。
 ここで、「神はこの世を愛された」(ヨハネ3:16)という言葉が大事になってきます。イエスの「よきサマリア人」に出てくるサマリア人は、当時の正統派から嫌われた異教徒だったことを忘れてはならないでしょう。悪は相手の側にも、こちらの側にもあるのです。

いわゆる「霊の戦い」は?
 近年、キリスト教界の一部で、「霊的戦い」ということが強調されるようになっています。おもに宣教論から出ています。このとき、霊的な戦いを、悪魔や悪霊との決着のつかない、果てしない戦いとして二元論的にとらえてしまうと、「聖書の世界というより、グノーシス的な世界観に近い」と聞いたことがあります。きちんと聖書に従っているなら、そういうことはないのでしょうが。

 この世では、目に見える世界と、目に見えぬ世界での悪との戦いがいまだにあるのが現実ですが、イエスはすでに悪と戦い、勝利をおさめた方として燦然と輝いている、というのが福音のもたらした世界です。ですから、あまり怖がることはないでしょう。しかし、甘く見ることもできません。

 C.S.ルイスが言ってますが、「悪魔を無視してもいけないが、気にしすぎるのもよくない」というような理解が、バランスがとれていいのではないでしょうか。

補 記
 ところで以前、「東方正教会は一元論の神学を保っている」と書きましたが、肉体を苦しめ苦行を積むことが、より霊的だという霊肉二元論は、東方教会の一部に浸透したこともあるようです。それはギリシャ思想から影響を受けたようです。古代ユダヤ教も、旧約と新約の間の中間時代に、二元論の影響をかなり受けたのだとか・・。私たちが二元論的思想から完全に逃れることは、そう簡単ではなさそうです。
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コメント
救世軍のマク少佐のブログを拝見しました。いやー、おそろしく博学な方で驚きました。二元論(二項対立図式)につていも書いています。ルイスのネオ・プラトン主義についても解説されていますが、「そうなんだー」と教えられました。西洋思想から東洋思想まで網羅し、しかも長大な文章。私なんか、うんうん唸りながら文章を時間をかけて読んでいかないと理解困難です。
神学教育を受けていない素人の私など、見当違いな発言をしていないかと冷や汗です。理解は簡単でないですが、このような見識をもった方がいると、助かりますね。たいしたもんです。

マク少佐が、言及しているイギリスの左翼新聞「ガーディアン」のルイス批判の記事が日本語で読めます。先週、偶然にも(必然にも)友人からもらいました。「『ナルニア国物語』はキリスト教のプロパガンダか」という特集が載っている「クーリエ・ジャポン」3/16日号です。今週次号が出ましたので、早く書店に走らないと並べてないかも知れませんよ。
【2006/03/16 15:50】 | amen-do #79D/WHSg | [edit]
関連記事がありました。トラックバックしたいのですが、すでに書かれものにTBすることができるのかどうか知らず、ここにアドレスを載せさせていただきます。マナーに反するのでしたらご指摘ください。カバーラント長老教会のある牧師さんのブログです。わたしと共通する懸念が書いてあります。
「冷静さをもってナルニアを読もう」
http://app.blog.livedoor.jp/hiro_igaki/tb.cgi/50369258
【2006/03/17 12:15】 | amen-do #79D/WHSg | [edit]
シリーズお疲れ様でした。分かりやすく、色々考えさせられました。
 マク少佐のブログはそういえば何ヶ月か前、「キリスト教世界観」で検索した時にちょっとのぞいたことがあって、大変な論争が繰り広げられているなと思ったことです。
 悪との闘いがあるけれども、二元論的にとらえると危険だと言う指摘を聞いて、以前ある人から聞いたことを思い出しました。この方は悪霊との闘いの祈りを朝から夜中までしていて、精神的におかしくなる寸前のところにいったとか。
 アメリカの右派、再建主義論争、ナルニアの映画に、極端な霊の闘いなど、なんと複雑なことでしょう!
【2006/03/17 12:54】 | 島先克臣 #79D/WHSg | [edit]
まったくもって、そのとおりですね。もっと単純に行かないものなんでしょうか。それほど人間は罪の性質でゆがんでしまったというところなのでしょう。
 福音は解放と自由をもたらすはずなのに、そこにいろんなものを持ち込んでしまうのですねー。やっかいです。それとも、福音を霊的なことだけの領域としてしまって、充分に理解していない、ということなのでしょうか。教育を受けたたくさんの神学者、指導者がいるはずなのに・・・・。不思議、不思議の世界です。
【2006/03/17 18:02】 | amen-do #79D/WHSg | [edit]
カバーラント長老教会のある牧師さんのblog、とてもわかりやすくておもしろかったです。なんとなく、わたしも思っていたことに近かったといいますか・・^^・・また、こちらもクーリエの記事(「ガーディアン」のルイス批判)についてもふれていらして、興味深く思いました。ご紹介ありがとうございました。
今からでも、TBをなさっては如何でしょう?過去の記事でも全くかまわないようですよ^^(先方もうれしいのではないでしょうか)
こういうのが、blogの、本来のTBの面白さ・好いところなのでしょうね!

山谷少佐のblog
http://majormak.blogspot.com/2006/03/blog-post_08.html
もとても興味があるんですが、難しくて長くて、私の頭では、なかなか完全にはりかいできない時が多いのですが、今回も完全に理解していなかったので鍵コメで書き込んだんです(^^;すみません。(きっと少佐も見つけられると思うので、ここで謝っておこうっと「すみませ~ん!悪気はないんです。」)

【2006/03/18 16:30】 | psalm42 #79D/WHSg | [edit]
TBについてのアドバイス、ありがとうございます。ある牧師さんのブログ、いい点をついていますよね。わたしも、その点までつきたかったのですが、マク少佐級(?)の長さになってしまいそうなので、遠慮しました。
映画「ナルニア国」では、原作になり激しい戦闘の場面が描かれているようです。それを見て、「大量殺戮はしかたない(あり得る)。相手が悪だからだ」という価値観が作られないだろうか、というのが心配です。「映画見るより、チケット代を海外宣教に献金したほうがいい」と言った人がいます。でも、その人も見たから言えるのですよね。私も見てみたい。
【2006/03/18 18:22】 | amen-do #79D/WHSg | [edit]
見つけましたよ!(笑)

復活した中世人を自称するルイスは「神ー天使ー自然」という三項図式の世界観に立っていました。このあたりは、柳生直行氏が『お伽の国の神学』で論じておられました。

ところが、これが、アメリカ人脚本家の手にかかると、単純な二項図式の世界観で映画化されてしまう恐れがあります。アメリカという国は、「恵みの契約」と「業の契約」という二項図式のダイナミックな展開で発展して来た国であるからです。単純な善悪の対決が好まれがちなのです。

第一次大戦に従軍した経験を持つルイスは、戦争自体には必ずしも否定的ではなく、むしろ、イギリスの伝統的な全寮制のグラマースクールを呪詛していました。一方、戦争については、戦時下では人間は生死や霊魂の問題を真剣に考えるので、利点がある、とすら『悪魔の手紙』で示唆しています。こういったところが、左翼から「ルイスは好戦的」と批判される理由でしょう。
【2006/03/18 21:28】 | makotoyamaya #79D/WHSg | [edit]
ようこそ、博学にしてキリスト教界の論客にお越しいただき恐縮です。

こちらの貧相な手こぎボートに、最新鋭の大型空母が横付したかのようで(笑)ギョッとしましたが、大歓迎です。これも、熱心なブロガー谷川鹿子さんのお陰ですね。

ルイスが、復活した中世人と自称したとは面白い(笑)。親トマス・アキナス、親アリストテレスなんでしょうか。『お伽の国の神学』を読んでみる必要がありそうです。

単純な善悪の二分化ーー移民の国、多民族の国で高い視聴率を稼ぐための知恵を身につけた文化なのですね。複雑不可解な脚本には、スポンサーが文句をつける、出資者側や配給元がカット版にするなど、介入が入って作家たちも大変らしいです。陰の親玉が札束数えて、ほくそえんでいるんでしょうか。

左翼の批判について教えていただき、ありがとうございました。なるほど。日本に住んで危機意識に乏しい頭で、軍隊、軍備、戦争など、キリスト者としてどうとらえたらいいか私には難問ですが、ルイスも時代の子なんですね。私たちも、どうしようもなく時代の子ですが・・・・。
【2006/03/18 22:16】 | amen-do #79D/WHSg | [edit]
今日出席した教会であめんどう社の本が2冊あり、『待ち望むということ』を手に取り、買い求めました。家内が実家に帰っているので、礼拝後一人喫茶店で味わいながら読みました。今の私の個人的な状況や必要にまさにぴったりの内容で、必要な糧でした。ご労苦感謝します。

それと関連して、考えさせられたことがあります。私たち(特に福音派の保守)が、自分たちと比べてちょっとでも違う信仰理解や神学を見ると、過剰に論争的になることを何度も見て来まして、その理由をこの何年間か思いめぐらしています。この本から得た示唆は、その理由の一つは自分のアイデンティティーが脅かされる「恐れ」ではないか、ということでした。恐れから互いに攻撃するのではなく、互いの中に神の愛が注がれているのを認めて、共に待ち望むという在り方を求めて行きたいな、と、この本から思わされました。親族にはカトリックと聖公会、職場にはカトリックと教団の方々がいますし、帰省中の教会は教団の教会です。その方々から色々教えられていますので、益々そのような歩みを目指したいと願っています。
 
短い本ですので、何度も読み直して行きたいと思っています。
 
ありがとうございました。
【2006/03/19 14:52】 | 島先克臣 #79D/WHSg | [edit]
ご購入いただき、ありがとうございます。本当に名著であり、聖書の読み方、すっかり見逃していた霊的な在り方を示されますね。

ちょっとでも異なると過剰に攻撃的になったり、思考停止に陥る傾向を、マクグラスは保守反動と言っていたと思います。反論批判しても、それに代わる提案を示せないでいるのが大方。建設的批判はいいと思うので、互いに修正しつつ良くしていけばと思うのですが、二項対立を乗り越えられないところがありますね。

結局、「自分のところがいちばんよい」「これまで通りでよい」「これが私の神学だ」と言ってシャッターを降ろすことに・・。

私も含めてですが、自分が変わるのがいやなんでしょうね。その背後にあるのは「恐れ」「劣等感」「優越観」だったり、単に人格の未成熟や無知が生むものだったり、複雑です。

変わらないものを保持しつつ、自分にとって異質と思われるものにも目をむけ、神の愛を注がれつつ、力みを抜いて、柔軟に対応できたら、というのが私の祈りです。人間のわざで対処すると、こちらが燃え尽きてしまいそうです。
【2006/03/20 13:54】 | クレオパ #79D/WHSg | [edit]
こんにちは! このシリーズが始まったとき、「二元論? なにそれ? 難しそうだからスルーしようかな」と思ったのですが(ごめんなさーい!)、いろいろ考えさせられ、とても興味深かったです。
教会で中学生の女の子のクラスを担当しているのですが、やはり「神vsサタン」「天国vs地獄」みたいな世界観(?)を持っている子が多いのですね。天国の王が神さまで、地獄はサタンの王国、みたいな。地獄を造ったのも神さまで、私たちの救いはサタンからの救いというより「神の御怒り」からの救いなんだよ、と言うとみんな目を丸くします。こういう誤解も、クレオパさんがおっしゃる「二元論的な善悪の理解」から来るのでしょうね。

【2006/03/21 01:31】 | はちこ #79D/WHSg | [edit]
映画「ナルニア国物語」は、言われてみれば確かに二元論的に善悪が描かれているかもしれません。でも、子供たちに神さまの理不尽にも見える恵みと愛を教えるには、いいきっかけになる映画だと思いましたよ。また、私はあの戦いの場面などは、勧善懲悪というより、神の召しを全うする上で妨げとなる様々な誘惑やつまずきとの戦いとして受けとめました。ある意味、自分との戦いともいうか。自分の中にもある、神を悲しませ、裏切ってしまう弱さとの戦い、そしてそのような弱さにも関わらず、戦いのあとで冠をかぶせてくださる神さまの恵みと憐れみ… クリスチャンにとっての戦いは、単純な二元論的な勧善懲悪の戦いではありませんが、「戦い」が日々の歩みの中でもリアルなものであるには間違いないですよね。だからこそ、「神の武具を身につけよ」と言われているのですし。私たちにとっての「戦い」の本質は何なのか、そんなことも考えさせられました。いつも刺激的な記事を感謝します!
【2006/03/21 01:37】 | はちこ #79D/WHSg | [edit]
何度かに分けて投稿いただき、ありがとうございます。コメント欄は文字数制限があるため、お手数をおかけします。

「二元論」、馴染みのない用語ですね。別な言葉で言うと、「黒か白か」「あれかこれか」「割り切り」「決め込み」思考とでも言えるでしょか。グレーゾーンを認めない、成長、変化、発展というようなプロセスを認めないことですよね。日常の生活では割り切ることも、ときに必要でしょうが、それが世界観という大きな判断基準なると、知らずに私たちに現実認識を誤らせることになるのですね。そして、愛についての教えから遠ざかることに・・・。

教会の中学生クラスで、その傾向を認めてすぐに対処できたとは素晴らしい。さすがはちこさん。私なら見逃してしまいそうです。大人たちは毎週聖書を語っているから大丈夫と思っていたら、足下で違ったパラダイムで受け止めていて、しかもそれに気づかない、ということが起きるのですね。びっくりです。(もしかしたら大人も二元的に理解していたり・・)。一元的に見ると、いろんな問題に直面しなければならずつらいですが、イエスの十字架の前で、はじめてそれが可能になるのではないでしょうか。
【2006/03/21 12:42】 | クレオパ #79D/WHSg | [edit]
ナルニアの映画の戦闘場面はまだ見ていませんが、はちこさんのように受け止められたらよいのではないでしょうか。敵側がたいへん醜く、嫌悪をもようさせるような残虐非道な存在として描かれていると予想します。リアリズムの手法(誇張することで実際の現実よりも、より現実らしく思わせる手法)で描かれていますよね。

映画『ロード・オブ・ザ・リング』の悪の勢力との戦闘を描いた同じプロダクションがCGの担当でしょう? 恐怖と吐き気をもようす悪の権化との闘いが、じつは私たちの心の内の戦いなのだと、健全なセルフエスティームを保ちつつ、受け止められたらよいですね。何と闘うべきか、本当に肝心な点を見誤ることなくしたいです。(スタジオ・ジブリが描くアニメ『ゲド戦記』は、たぶん東洋思想の一元論で描かれるのではと予想します。)難敵(?)現わる(と二元論的に捕らえてしまいそう。やっかいな問題です。笑)。
【2006/03/21 13:45】 | クレオパ #79D/WHSg | [edit]
CSの二元論について
 今、WBCを見終わったところです。久しぶりに野球に興奮しました!!
 善悪、神と悪魔の二元論が色々な場面で関係しているのだな、とお二人のやり取りを読んで感じさせられます。また、はちこさんのCSの子供たちのことを聞いて考えさせられます。
 CSなどで旧約聖書に親しむ機会を多くするのが一つの方法かな、と思いました。例えば、旧約(ダニエル書などの最後の方の書を除くと)では、神が圧倒的な支配者で、他の神々は全く及ばず、サタンも神の許しがなければ、ヨブに手出しさえできませんよね。神と神々、神と悪魔が多少でも対等に戦うという場面さえありません。また人は死んだら天に行くなどと言うことは、被造物のぶんを越えた冒涜に等しい感じさえあります。魂と体が分離することもありません。[(命の)息と訳すべきところを霊と訳したので誤解されている箇所が伝道者の書に一箇所ある程度です。] 旧約では人は命(の息)が取られると死んで、土に帰ります。そう言う訳で、旧約聖書に親しむ時間を長くすることが二元論に陥らない一つのよい方向なのではないかと感じるのです。

【2006/03/21 16:11】 | 島先克臣 #79D/WHSg | [edit]
続き
 ただ,逆に旧約の世界では、主権者なる神がなぜ敬虔な信仰者に苦難を許すのかという疑問が大きく浮上してきます(二元論では出て来ない疑問)。そこでヨブ記や伝道者の書がそこに答えようしてくれるわけです。旧約は面白いですよね。CSで旧約をもっと読もう!旧約にバイアス気味の者です! 
【2006/03/21 16:11】 | 島先克臣 #79D/WHSg | [edit]
祝、第一回WBC世界一!! すごい偉業ですね。もっともアメリカ国民はあまり興味がなさそうというような記事が・・・。

神だけが唯一の創造者であり、その存在を脅かす独立した存在(被造物)は存在しことを、旧約ワールドは鮮やかに記しているのですね。限られた時間で子どもたちに旧約世界を紹介するのはたいへんで、つい新約に集中してしまいますが、注意せねば。

死んだら土に帰る・・・確かに旧約の記述は、それが中心ですね・・。だったら人間の霊は? 中間地点(パラダイス)に一時的に置かれるという理解ですね。ふーむ・・・。
【2006/03/21 17:13】 | amen-do #79D/WHSg | [edit]
旧約の世界では、死んだら人は(霊も肉も分離せず)地下の死者の世界で先祖とともに眠っている、ととらえられていたようです。メソポタミヤやエジプトの宗教では、地下の死者の世界の様子が詳しく述べられていますが、旧約では非常に簡潔です。それは多分、旧約では地下の死後(死者)の世界より、地上で神を畏れて生きることの方に強調があるからかもしれません。
 そう言えば、罪に対する神のさばきや懲らしめも、死後ではなく、地上ですよね、、、。んー、やはり旧約は私たちにこびりついた理解をゆさぶってくれます。ゆさぶられてどこへ行くのか??
【2006/03/21 18:55】 | 島先克臣 #79D/WHSg | [edit]
「二元論」を「グレーゾーンを認めない、成長、変化、発展というようなプロセスを認めないこと」と言えば、私にもよくわかります! そういえば、ビュルキ師も、「あれかこれか」と同時に「あれもこれも」なのだと言っていましたね。一つの生活の事柄について、排他的(あれかこれか)であることと包括的(あれもこれも)の両方が関わり合うと。信仰も、受動的であると同時に能動的であり、主観的であると同時に客観的であると。では結局何でもアリなのかといえば決してそうではなく、ある意味「二元論」的割り切りよりもっと厳しいスタンダードを感じさせます。それは、唯一絶対の神の存在が基底に据えられているからなのでしょうか。

 もっとも、聖書の中にも、生ぬるいのではなく熱いか冷たいかであれ、とか、神に仕えるのか仕えないのか今日選びなさい、のような記述もありますから、二項対立的なものは全て非聖書的だというのでもないでしょうね。
【2006/03/21 23:54】 | はちこ #79D/WHSg | [edit]
島先克臣さん、初めまして! 貴HPを訪問させていただきましたが、大いに共感いたしました。結婚して予想外に専業主婦になり、家事と育児に明け暮れる生活の中でアイデンティティーの葛藤を覚えた時、イエス様が生活全ての分野の主であるということに目が開かれ、私の世界観が変わりました。最近では、私がここ数年翻訳しているクラウド&タウンゼント博士の著作の中で、「霊的成長」とはいわゆる「霊的」な分野に限ったものではなく、感情的にも関係的にも、生活のあらゆる分野における全人格的成長のことだと学び、さらに目が開かれつつあります。まさに「包括的霊性」ということでしょうか。イエス様は私たちの存在の全て、営みの全てにおいて主であられるのですね! 

サンディエゴの日本人教会には昨日、WBCのチケットを200~1000ドルで買わないかという電話が見知らぬ人たちから続々と入ったらしいですよ。(笑)
【2006/03/21 23:55】 | はちこ #79D/WHSg | [edit]
ビュルキ氏の主張と関連づけてくださってありがとうございます。そうだったのですネ。(すっかり忘れている私です。汗)
もう一度読み直さなければ・・・・。
【2006/03/22 12:01】 | amen-do #79D/WHSg | [edit]
はちこさん、
 HP読んでくださっただけでなく、レスポンスも下さりありがとうございます。

「包括的霊性」ということでしょうか。イエス様は私たちの存在の全て、営みの全てにおいて主であられるのですね! 

アーメンです。このような視点に立つ方々が世界中で増えているようで、感謝しています。福音が本来持っている救いの幅の広さですから、ご聖霊が回復されているのだなと思わされています。

1000ドルは法外な!
【2006/03/22 12:36】 | 島先克臣 #79D/WHSg | [edit]
 キリスト教への二元論の混入という事態に対して、キリスト教は一元論であるというシンプルな捕らえかたでは、正しいキリスト教認識にいたることはできないと考えます。というのは、汎神論は一元論であるからです。神も人も動植物も無生物も皆一つ、善も悪も一つ、男と女も一つ、キリスト教もさまざまな異教も一つ、という意味での一元論が汎神論です。キリスト教の包括主義、宗教的多元主義化、ニューエイジ化です。

キリスト教は、むしろ、一であることと多であること、言い換えれば、類似性と区別性の両方を重んじる思考をたいせつにすべきです。区別性のみを強調し聖俗二元論に陥るのではなく、さりとて聖俗の区別を見失ってしまうことなく、です。この類似性と区別性(一と多)の両方をたいせつとする根拠は、この世界の存在の構造が多様性と統一性から成ることです。それは、被造物には、これをお造りになった、三にして一であるの影が落ちているからです。
【2012/09/13 16:57】 | Miz #LGqkiskA | [edit]
Miz様
重要な指摘をいただき、ありがとうございました。なるほど。
「解」「出口」がなかなか見つからない原因はそんなところにありそうですね。一元論、二元論の対立でとらえようとすることに限界があり、いや、そもそも問いの建て方が正しくなかった、ということですね。
ご指摘の視点を教えてくれる人が周りにいないので、今回は大変助かりました。
東洋思想、東洋的宗教観が一元論的であるのは、よく知っているつもりですが、それとキリスト教世界観の本質的な違いの一部が、なかなかすっきりしなかったのです。
そこで、立つ土俵を買えれば、世界が開ける感じがします。

類似性と区別性を重んじる世界観について、よく考えてみたいです。ものごとを静止した状態、平面的にとらえるのでなく、構造的に、発展的にとらえる、ということでしょうか。
こうした世界観を表す言葉は何があるでしょうか。
「聖書的(キリスト教的)世界観」とは別の哲学用語で捜しています。
もし「包括的」が適さないとしたら、なんと呼ぶのでしょう? 
【2012/09/14 13:38】 | クレオパ #jSt4TPmo | [edit]
メールでのお交わりをいただいているニュッサです。

上記のコメントに、

>ところで以前、「東方正教会は一元論の神学を保っている」と書きましたが、肉体を苦しめ苦行を積むことが、より霊的だという霊肉二元論は、東方教会から出てきたものらしいです。

東方教会では、苦行は一般的ではないと思います。少なくとも、西方教会で、中世以降見られるような意味での苦行はないです。
ただし、東方教会で異端とされる流れにおいては、確かに、苦行があります。しかし、それは、東方教会の神学が二元論と言うよりも、もともとギリシャ哲学が二元論なので、その影響を受けているのだと思われます。
東方教会の神学に、二元論は、私の知る限りはありません。
【2013/04/19 07:49】 | ニュッサ #oCh1ZVfw | [edit]
ニュッサ様

過去の記事にコメントくださり、ありがとうございます。
東方教会についての見解に、修正の必要がある、ということですね。
苦行が見られるのは、東方教会の神学から発したものというより、ギリシャからの影響が、特定のグループに流れ込んだ、ということですね。大事な点ですね。
大変参考になります。これからも折をみて勉強してみたいです。
【2013/04/22 00:26】 | クレオパ #jSt4TPmo | [edit]












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